けが ハンデと感じず

右手の薬指は、真っすぐに伸ばせないし、強く握れない。それでも、小指を立ててバットを持ち、スイングをまねるその顔は、笑っていた。「案外、3本の指でバットを振れるんよ。(小指を立てて)彼女でも紹介してくれんか、て感じだけどね」。けがを、ハンデとは感じていない。

万全の状態だった試合の方が、むしろ少ないかもしれない。休日返上で体のケアに当たっても、アクシデントは起きる。右手の薬指は、広島時代に捕球しようとしたライナーが直撃、骨折した後遺症だ。

「そりゃ、ピンチはいっぱいあった。死球、自打球、突き指。でも記録を目指してたわけじゃないから」

休まずに出続ける理由を探ると、2000年、広島での“事件”に行き着く。

主力のけがに泣いたシーズンだった。野村、緒方、前田が相次いで故障。欠場を繰り返した3人は、シーズン途中の8月末、球団の指示でリハビリ治療のため、渡米してしまったのだ。

金本とは対照的な厚遇だった。二軍時代、活躍しても首脳陣の一人からは「オレのいるうちは、一軍に上げん」と言われた。既に年俸1億円を超えていた1998年オフに、二軍秋季キャンプ行きを命じられた。愛のムチ〉とは言え、積み重なった苦い思いは、心にこびりついていた。

だからこそ、こだわる。「すぐ休むのは、プロとして納得できない」。反骨心が燃え上がった。

一度決めたら、テコでも動かない。01年、北九州市でのオープン戦。
試合前の練習でかかとを痛め、満足に走れなかった。トレーナーから欠場を勧められると、「ここでの試合はめったにない。今日、ほかに主力がおるんか」。ファンへの思いが、語気を強めた。

一方で、「あの時は、記録を意識した」と回想する試合もある。04年7月29日、中日・岩瀬の速球が左手首を直撃。激痛でバットが握れない。後に骨折と分かる重傷。連続試合フルイニング出場の日本記録まであと2試合だった。

だが、1年目の岡田監督は何も言わず、先発で使った。「体が悪くてもいいから試合に出てくれ、という監督の思いがあるなら、四球を選ぶなり、走るなり、そういう貢献もある」と、金本はいう。

死球を受けた後の試合。右手一本で安打を放ったかと思えば、セーフティーバントも見せた。監督が、そんな男を欠場させるはずがなかった。

(2006年04月11日 読売新聞)
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