【11月14日】1998年(平10) 

 ヤクルトを9年間で3回日本一にした、野村克也新監督が就任した阪神。10年間で5度最下位の“ダメ虎”の何かが変わる予感を多くのファンが抱いたが、高知県安芸市での秋季キャンプでその"第1弾"が飛び出した。

 「スゴイ球や。うちの"投手"陣の中で一番速いで」とご機嫌の野村監督の先に見えるのは、背番号5・新庄剛志外野手。メーングラウンドのマウンドに登り、山田勝彦捕手相手にストレート中心に25球を投げた。

 「外野からの送球を見て、どんな球質かマウンドに立たせたくなった。50年近く、いろいろな鉄砲肩の選手を見てきたが、並外れとる。腕が長いのも投手向きや」と野村監督の言葉は真剣そのもの。自分で左打席に入り、球筋を確認すると、口元をほころばせた。「下半身を鍛えてバランスが良くなれば150キロは出るやろ」。その場で外野との二刀流を決定。開幕前のオープン戦でテスト登板させることを示唆した。

 「ちょっと、マジで投げた。(西日本短大付属)高校のときは投手もやってたし、練習試合で完封もした」と新庄もまんざらではなさそう。受けた山田は「新庄速かったかって?そんなこと投手に悪くて言えないよ。でも、中込(伸投手)より速かったかな」と笑っていた。

 春季キャンプ初日の99年2月1日からブルペン入り。シート打撃、紅白戦にも登板した。しかし、2月21日の紅白戦では、1回22球を投げ3安打3失点。MAX147キロをマークしたが、全体的に球が高く、そこを痛打された。

 「結論は3月や」と野村監督は話したが、チームメイトの「新庄投手」に対する評価は辛口だった。先頭打者として左中間二塁打を放った和田豊二塁手は「新庄に1・5人前の外野守備をしてもらうため、(投手をやめさせるには)新庄から打つのが目的だった。早く外野に戻って頑張ってほしい」と、指揮官との考え方の違いが浮き彫りになった。

 オープン戦の初登板は3月5日、熊本での巨人戦。4回に2番手で登板し、先頭打者の元木大介三塁手には7球すべて直球勝負で二飛。続くルーキーの二岡智宏遊撃手には4球とも外角低めに集め、遊ゴロ。スライダーも1球試した。指名打者の後藤孝志内野手には7球投げて中飛に打ち取り3者凡退で退けた。

 降板した後は中堅の守備に入ったが、最終打席で左前打を放ったときに左大腿部を痛めた。けがは思いの外重症で、その後満足に投球練習できないまま、2試合登板。横浜の"大魔神"佐々木主浩投手直伝のフォークボールも披露したが、ダイエー・松中信彦内野手に本塁打を浴びるなど失点を重ねた。

 結局、投手どころか、開幕戦に本職の外野手としても出場できなかった新庄。いつのまにか二刀流プランは消え、阪神は名将を擁してもドベから這い上がれず低迷期は02年の星野仙一監督就任まで続いた。

【2007/11/14 スポニチ】
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