【1月18日】2000年(平12) 

 五輪に初めてプロ野球選手が派遣されることになった2000年のシドニー大会。「1軍選手以外からなら」と消極的なセ・リーグに対し、「アジア地区予選と同等か、それ以上のレベルの選手で協力したい」とするパ・リーグの温度差は激しいものがあった。

 予選では99年に11勝(8敗)を挙げた川越英隆投手を派遣したオリックスだが、この日のパ・リーグ理事、監督合同会議に出席した仰木彬監督はさらに大物の名前を口にした。「私自身はパ・リーグの一員としてイチローを出してもいいと思っている。本人の希望も含めながら考えないといけないけれど」。

 既にアジア予選での韓国戦に登板し、日本の五輪出場に大きく貢献した西武・松坂大輔投手は参加を表明。打者ではダイエーの主砲・松中信彦内野手らの名前も挙がっていたが、投の目玉が松坂なら、打の目玉に是非ともイチローをという周囲の期待を仰木監督が感じ取っての発言だった。

 同時にイチローが出場すれば、他球団もチームの顔を出さざるを得ず、五輪に協力的とはいえないセ・リーグも1軍のトップレベルの選手を出す気運が盛り上がってくるのではという狙いもあった。

 出場には当のイチローの意思が問題だった。しかし、イチローの五輪に対する考え方は「あくまでアマチュアの祭典。興味はない」と素っ気なかった。99年、ポスティングシステムでのメジャー移籍を考えていたイチローに、仰木監督はいずれ大リーグに行くのなら、五輪という大舞台をメジャーにアピールする絶好の機会ととらえて出場したらどうだ、と気を利かしたつもりだったが、背番号51はその必要はないとばかり、考慮する余地はほとんどなかった。

 イチローの意思がはっきりしたことで、話は幻に終わったが、仰木発言はチーム内に思わぬ波紋を呼んだ。イチローがダメならと、球団は主力だった田口壮外野手、谷佳知外野手の選出で調整に入ったが「僕の意見を言わせてもらえば、第1候補が拒否したので第2候補に、っていうのは失礼でしょ」(田口)「最初の人に断られて、2番目が断れないというのは変じゃないですかね」(谷)と強く反発。結局、田口が代表入りしたが、チーム内を騒がせた指揮官の言葉であったことは間違いなかった。

 そのイチロー、04年のアテネ五輪では少しスタンスを変えた。「オリンピックに勝つことが世界一になることであるならば(日本代表に)選んでいただきたい」と述べたのだ。

 ただし、そこには条件があった。それは米国がメジャーの選抜最強チームを編成してくること。「シドニー五輪での米国はマイナーチームでの編成。そういう状況なら、モチベーションが上がらないので難しい」ときっぱり。結局、アテネでも日本代表に加わることはなかった。

 イチローが「JAPAN」のユニホームにそでを通したのは、メジャーリーガーも加わっての06年3月のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)まで待たなければならなかった。

【2008/1/18 スポニチ】
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