【1月31日】1979年(昭54) 

 3度目のドラフト1位指名を受けた、法大卒で「作新学院職員」の江川卓投手は、この日阪神と契約。背番号「3」に決まったが、契約から約7時間半後に巨人へ移籍となった。プロで1球も投げていない投手の交換相手は、沢村賞、最多勝などのタイトルをとり、長嶋巨人のV2に貢献した小林繁。時計の針はあと30分で2月1日になろうとしていた、キャンプイン寸前の駆け込みトレードだった。

 「オレかもしれない」。小林はそんな予感を1カ月前から抱いていたという。78年12月22日、巨人ファンだったといわれる元富士銀行(現みずほ銀行)頭取の金子鋭コミッショナーのいわゆる「強い要望」で江川の阪神入団、即巨人にトレードのレールは敷かれた。阪神は王貞治一塁手まで交換相手に指名してくるのではないかとまで言われたが、現実的にはありえない話で、そうなると阪神に対して一番の天敵になる投手を指名してくるという図式が成り立つ。巨人在籍6年の小林の対阪神戦の星勘定は11勝3敗。たとえばトレードの候補として名前の挙がった、左のエース・新浦寿夫投手の同時期の対阪神戦の成績は10勝12敗。名前では堀内恒夫投手の方が格上かもしれなかったが、峠を越えた時期であり是非とも欲しいという感じではなかった。「そんことはない。お前は巨人のエースだ」と周囲は小林の心配を笑い飛ばしたが、エースと言われれば言われるほど、阪神が指名してくるのではないか強く思った。

 運命の日は宮崎キャンプに出発する日だった。小林、江川の動きを時系列で追うと、

 ▼午前11時50分 宮崎キャンプ出発のため羽田空港に到着した小林がすぐに球団職員に連れられハイヤーに乗せられる。「どこへ行くの?」(小林)「とにかく着いてから(話す)。(正力亨)オーナーと(長谷川実雄)代表がいるから」。

 ▼12時15分 江川が栃木の実家から上京、後見人の衆院議員船田中氏の事務所へ。

 ▼12時20分 ハイヤーは東京・紀尾井町のホテルニューオータニに到着。「小林君に阪神へ行ってもらうことになった」と長谷川代表。

 ▼15時20分 小津正次郎阪神球団社長らと江川親子の交渉。16時に契約。10分後に入団会見。報道陣からトレードについてきかれると「知りません」と江川。「阪神キャンプにはいつ行くのか」の問いには言葉に詰まる。

 ▼20時40分 ホテルを出た小林らは読売新聞社へ。阪神側も同席。

 ▼23時30分 巨人と阪神の間で交換トレード成立。

 ▼2月1日0時18分 トレード発表。

 ▼0時45分 小林が会見「請われて阪神に行くのだから、同情はされたくない」ときっぱり--。

 大丸神戸店の呉服売り場に勤務していた71年(昭46)、小林はドラフト6位で巨人から指名された。大学受験に失敗し、浪人を覚悟していた時に大丸から声がかかった恩義があり「都市対抗に出るまでは」と入団を保留。72年に出場したことで同年のオフに入団した。

 か細い身体から付いたあだ名が「ホネ」。1年目の73年9月に1軍昇格。V9へ首の皮一枚でつながっていた10月11日の阪神戦(後楽園)は球史に残る大乱戦で10-10の同点で9回へ。巨人は投手を使い切り、残っていたのは小林のみ。見事3者凡退に抑えて、引き分けに持ち込み、その11日後の甲子園での9連覇達成へとつながった。

 翌74年4月20日、中日1回戦(後楽園)で初勝利を挙げると、この年は8勝2セーブ、75年5勝の成績だったが、専らリリーフ。エースと呼ばれるようになったのは76年から。18勝を挙げた小林の先発、抑えでの大車輪の活躍で、76、77年と巨人はリーグ優勝を果たした。

 ところで、巨人では栄光の背番号「3」をなぜ阪神はすぐに出て行く江川に与えたのか。「たまたま空いていた番号だから」と関係者は言うが、そこには小津球団社長の意図的な演出を感じる。巨人では神聖な永久欠番が汚れることで、野球界のルールを曲げた江川に対する十字架を背負わせようとしたのだ。阪神の歴代「3」番は移籍選手らが付けることが多く、巨人のそれとは重みが違った。

 阪神の3番が生え抜きとして、チーム内に認められるようになったのは、“代打の神様”八木裕内野手が最初としても過言ではない。14番から入団2年目の88年に変更して以来、17年間付けていた。後を継いだ関本健太郎内野手が、八木を越えて、3番の代名詞になることができるだろうか。

【2008/1/31 スポニチ】
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