【3月4日】2004年(平16) 

 最大8球団が獲得合戦をした結果、早大の大先輩・岡田彰布が指揮を執る阪神に入団した鳥谷敬内野手。オープン戦3戦目にして、ようやく他球団の投手から安打を記録した。

 といっても、飛距離はなんと2メートル。「3番・DH」で出場の鳥谷は1回、ロッテ先発の小林宏投手の直球に手を出したが、これが当たり損ねで橋本将捕手の前方2メートルの場所で高くバウンドした。小林がマウンドから駆け下りて捕球し、素早く送球したが、左打者の鳥谷の足がわずかに早くセーフ。スコアボードにはヒットを示す「H」のランプが赤く点灯した。

 これで喜べるはずもない。渋い内野安打に本人は複雑な表情。3回には左の加藤康介投手から中前打を放ったものの「カウント1-3で真っ直ぐくることが分かっている上に甘い球。そりゃ打てるでしょ」と偵察に来ていた巨人のスコアラーは辛口評価だった。その言葉が示すように残りの3打席は無安打2三振。ロッテ自慢のリリーフ陣「YFK」の一人、藤田宗一投手の変化球には全く手が出ず3球三振を喫した。

 バットの始動が遅い、インコースに対応できていない…。三冠王も獲得した東京六大学史上屈指の打者は、キャンプ中から評論家などに厳しい指摘を受け悩んでいた。しかし、岡田監督は「鳥谷は何年に1度出るか出ないかの内野手。使い続ける」と、宣言。前年03年にリーグ優勝したタイガースのレギュラー遊撃手は8番打者ながら打率3割1厘を残した藤本敦士だったが、岡田監督は04年の巨人との開幕戦(東京ドーム)で鳥谷を「7番・遊撃手」で先発起用した。一挙6点を奪う8回の猛攻の中で左前への公式戦初安打を前田幸長投手から放ち、肩の荷を降ろしたが、1年目は結局、59安打で打率2割5分1厘。六大学で歴代7位の115安打を放った片りんは見せたものの、規定打席にも及ばず物足りないものだった。

 岡田監督の入れ込みようは、単に大学の後輩という立場を超えているようにも映った。公式戦に入っても、早出特打ちをする鳥谷に付き添い、監督自ら指導。遠征先の室内練習場でも付きっ切りになり、グラウンドへ試合開始直前まで姿をみせないこともあり、一部のナインからは「アイツだけ特別扱いか」と批判されることも。それでも結果が求められる公式戦ではさすがに使い続けることはできず、藤本が先発する機会が日を追うごとに増えていった。

 鳥谷が本当の意味で実力を発揮し始めたのは2年目からだった。146試合全試合に出場し、ヒット数は前年を100本上回る159安打をマーク。打点52でチーム優勝に貢献した。06年も全試合に出場。そして07年7月24日の中日11回戦(ナゴヤドーム)で、同じ阪神の藤田平遊撃手、横浜の石井琢朗遊撃手が持つショートとして339試合連続フルイニング出場の記録を更新。それを自ら祝うかのように9回には、ドラゴンズの守護神・岩瀬仁紀投手から逆転の口火を切るヒットを放った。

 フルイニング出場記録がストップしたのは9月29日の広島最終戦(甲子園)。4日前に受けた死球で肋骨にひびが入っていたことが判明したため、途中交代し379試合で途切れたが、過酷なポジションでの記録達成を可能にしたのは、あの鉄人、金本知憲外野手も驚く練習量とそこで得た自信が結果に表れていたからに他ならない。

 もとは右打ち。中学時代にイチローに憧れ、左打ちに転向した。埼玉・聖望学園高では3年夏に甲子園出場。小学2年で野球を始めてから遊撃手ひと筋だが、この時は投手も兼ねていた。高校時代からプロ側がドラフト候補に挙げていたが、「プロではまだ通用しない」と自分で判断し、早大に進学。1年春からレギュラーを張り、同級生のヤクルト・青木宣親外野手らとともに早稲田のリーグ戦4連覇を支えた。

 08年は自主トレ段階から若手を引っ張り、赤星憲広選手会長をして「成長した」といわしめた。阪神3年ぶりのV奪回が大きな目標だが、鳥谷にとってはプロになってからの夢である五輪での日本代表入りをかけた大切なシーズンにもなる。

【2008/3/4 スポニチ】
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