【3月16日】1985年(昭60) 

 その瞬間、敵側の巨人ベンチから拍手が沸き起こった。日生球場でのオープン戦、近鉄-巨人。通算312勝を記録した近鉄・鈴木啓示投手は123球を投げ完投。被安打7奪三振8、失点は9回に山倉和博捕手の二ゴロの間に取られた1点のみ。これだけ実績のある大ベテランが調整、試運転の場であるオープン戦で完投することはまず考えられない。

 「あの気迫だよ。真のプロの投手の生きざまを見たね。ウチの若手投手陣の目にどう映ったかな。何かを感じてくれれば最大の収穫だ」。真っ先に拍手を送った、巨人・王貞治監督は4人の投手リレーで近鉄を0点に抑えたこと以上に、鈴木のプロ魂に感服した。

 ここまで近鉄はオープン戦9連敗中。非公式戦とはいえ、気分は良くない。「オレが連敗を止める」という意気込みでマウンドに上がったことは間違いないが、それ以上に鈴木は静かに燃えていた。

 「オープン戦だけど、相手が巨人やったしな。スターとアイドルの違いも思い知らせてやりたかった」。7回までの予定を9回まで伸ばしたことについて、鈴木の口調ははっきりしていた。「人気球団巨人の選手はプロとして半人前でもスター扱いされる。本当のスターって、違うだろ?人気だけならアイドルだろ?実力、実績を兼ね備えたプレーヤーにスポットが当たらず、野球以外のことが話題になり、注目を浴びるジャイアンツの選手にプロの意地を見せたかった」。腰椎がずれ、軸足の左足アキレス腱の周囲も炎症を起こし、完投どころか登板すら難しい状態での好投は、20年もの間この世界の第一線でメシを食ってきた男のプライドをかけたものだった。

 鈴木に与えられた冠は“草魂”。巨人・上原浩治投手の“雑草魂”に通じる、ナニクソの精神で身を立ててきた。子どものとき右肩を骨折したため、左で投げるようになったのが鉄腕サウスポーの原点。右手を使いたがる啓示少年に父親は言った。「川上哲治のようになれ!」。ぎごちない左手で野球をすることが好きではなかった鈴木が練習で一番楽しかったというのは、左手を使う必要がない走り込みだった。

 65年、兵庫・育英高のエースだった鈴木は相思相愛だった阪神にフラれ、第1回のドラフト会議で近鉄に1位指名された。パ・リーグのお荷物球団といわれたバファローズに入る時、人気球団の選手より実力をつけてスター選手にのし上がってやる、という思いを抱きプロ入りした。

 弱小球団だった近鉄で毎年タイトル争いに絡み、最多勝は3度、防御率、最高勝率のタイトルも獲得。ドラフト制度以後では唯一の300勝投手で、オールスターは入団した66年から計15回出場した。

 ファンにサインをせがまれれば、快く応じるなど気さくな一流選手だったが、こと野球に関しては妥協を許さなかった。チームは85年、初のサイパンキャンプを行ったが、鈴木は「今までのやり方を崩したくない」と参加を拒否。周囲からわがまま、自分勝手といわれながらも自分の流儀を貫き、国内で一人で調整に励んだ。その裏には「体力、気力を考えると今年が最後になるかもしれない」という覚悟があり、だからこそ納得のいくキャンプを送りたいというこだわりがあった。

 執念のオープン戦完投は、ロウソクの灯が消える前の最後の輝きだったのかもしれない。巨人戦から約4カ月後の7月9日、ここまで5勝5敗の草魂投手は「魂をなくして草だけになってしまった」(鈴木)。

 後楽園での日本ハム-近鉄11回戦、6月17日の南海14回戦(大阪)以来、3週間ぶりの登板となった鈴木は3回集中打と自らの悪送球で5点を奪われ、味方の3点援護を守れなかった。

 日本ハムの4番・古屋英夫三塁手の打球が右翼フェンス直撃の三塁打となり、内野に打たれた球が戻ってきた。普通、投手はボールを球審に替えるよう要求するものだが、鈴木はそのままグラブに収めた。

 岡本伊三美監督が投手交代を告げ、板東里視投手コーチが歩み寄るや否やマウンドを降りた鈴木。古屋に打たれたボールを板東コーチに手渡すことなく、グラブに入れたままベンチに下がった。

 「これが最後のボールや。これは欲しかった」。初勝利も300勝した時も「ファンが喜ぶなら」とすべてメモリアルのボールはスタンドに投げ込んでいた男が、703試合、4600回3分の1を投げて最初で最後に手元に残した“記念品”だった。

 翌10日、ナインに別れを告げると独りで帰阪。球団首脳には現役引退の意思表示をした。シーズン中、しかも多大な功績のある投手をこのまま辞めさせられないと慰留、間近に迫ったオールスターでも復活した“サンデー兆治”こと、ロッテ・村田兆治投手に次いでファン投票2位でもあった。しかし、37歳の男は引き際も頑固だった。

 「魂の抜けた鈴木啓示をファンの皆さんの前にさらすことは恥。もう投げません。オールスターは生き生きとしたスター選手が集まるドリームゲーム。死にかけた選手が出るところではない。(引退は)心と体がバラバラになってどうしょうもなくなったから。(6月17日の)南海戦で張りつめていた糸がプツンと切れた。もう一度と思い日本ハム戦で投げたが、もとには戻らなかった」。

 通算317勝238敗2セーブ。自ら「勲章」とする被本塁打560本は今でもNO.1の記録。第1回ドラフト選手の中で投手としては最後の生き残りとなり、その代表格として最高の成績を残した。

【2008/3/16 スポニチ】
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