【4月21日】1995年(平7) 

 【ロッテ2-1オリックス】「誇りに思うが、ウイニングボールがないのがとても残念です」。背番号21は小さな声でつぶやくと、しばらく黙ってしまった。

 9回、162球を投げ奪った三振の数は19個。94年8月12日、近鉄16回戦(グリーンスタジアム神戸)で自ら記録した1試合17奪三振の日本記録(野田のほか2人)を更新しながら、土壇場の9回裏に同点に追いつかれ、勝ち星を逃したオリックス・野田浩司投手は新記録より1つの白星に手が届かなかったことを悔やんだ。

 千葉マリンスタジアム、ロッテ-オリックス3回戦。幕張の海に面したセンター方向から吹き降ろす8メートルの強風は、ネット裏の高い壁に当たり、投手にとっては追い風から向かい風に変わった。実はこれこそが新記録への“追い風”だった。

 西武・清原和博一塁手が「お化け」と称した、落差の大きいフォークボールは、風の空気抵抗を受け微妙に揺れながら気まぐれに落ちた。初回からロッテの打者のバットは次々と空を切り、2回までの6つのアウトをすべてが三振。4回で早くも10K。7回、代打・五十嵐章人内野手から16個目を奪うと「(新記録は)行けると思った。序盤から三振を多く取れたので、頭の中で数えながら投げていました」。日本記録保持者は球のキレ、気象条件などから新記録達成を確信していた。

 風は運も一緒に運んできた。3回、DHのフリオ・フランコ内野手のライトへのファウルフライが風に流されたため、名手イチロー右翼手が落球。その後、フランコは空振り三振。7回には愛甲猛一塁手の一塁ファウルフライを藤井康雄一塁手がこれも風の影響で落としたが、愛甲も三振を喫した。この2本の飛球がそれぞれグラブやミットに収まっていたら、野田の記録更新はなく、自身2度目のタイ記録で終わるところだった。

 それなのに勝利の女神だけが野田に微笑まなかった。8回に平野謙右翼手から18個目の三振を奪って記録を塗り替えて迎えた9回も一死一塁。あとアウト2つで完封勝利というところで7番・平井光親中堅手に中越え三塁打を食らい同点に追いつかれた。

 二死後、新記録の三振を取った平野をもう一度フォークで仕留めてスコアブックのKの数は計19個になったが、野田の表情はまるで敗戦投手のように沈んでいた。

 そして延長10回、守護神・平井正史投手が南渕時高二塁手に右翼へのサヨナラ犠飛を許し、オリックスは敗れた。日本新記録を樹立しながら、勝敗に関係がなく、勝てなかったのは初めて。「野田の続投?考えたけど…。あいつに勝ち星をつけてやりたかった」と山田久志投手コーチはすまなそうに球場を後にした。

 88年、阪神入団。5年間で通算35勝を挙げ、弱投タイガースの先発の柱の1人でもあった。ところが92年オフ、決定力不足でヤクルトとの優勝争いで競り勝てなかった中村勝広監督は、強打者獲得に狙いをつけオリックスの松永浩美内野手との交換に踏み切った。

 12月22日、郷里の熊本への土産にと野田が球団事務所でタイガースのカレンダーを買い込んだ翌日のことだった。「その時誓ったんです。絶対オリックスで男になるって」。

 移籍1年目の93年、17勝を挙げ最多勝のタイトル獲得。奪三振日本記録をマークした95年、翌96年もオリックスの連覇に貢献。誓ったとおり野田は「男」になった。

 1試合15奪三振以上を4回記録したのは野田と400勝左腕・金田正一投手の2人のみ。通算89勝止まりだったが、記憶にも記録にも残る投手である。

【2008/4/21 スポニチ】
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