【8月6日】1985年(昭60)  

 【阪神7-4ヤクルト】自打球を右足の甲に当てた助っ人は全治は2週間と診断されていた。しかし、1週間足らずでこの男は戦いの場に帰ってきた。「OK、大丈夫だ。いけるよ」。左目でウインクして、ランディ・バース一塁手はグラウンドへ姿を見せた。

 甲子園を高校野球に明け渡すため、かつては“死のロード”と呼ばれた阪神の恒例8月の長期ビジターゲーム。最近では京セラドーム大阪などで試合もでき、すっかり死語となったが、20年以上前はまだ阪神にとって試練の20日間だった。

 その初戦となる神宮のヤクルト14回戦に、7月31日の中日戦ではく離骨折したバースが戦列に復帰。チームの士気は大いに上がった。

 今では当たり前の打者の足を守るプロテクターをこの日初めて装着したバース。「スパイクをはかずにズックで野球をするのも初めて」だったが、初回一死二塁の好機に早くも“復帰効果”を見せつけた。

 ヤクルト先発の左腕・梶間健一投手のカーブをとらえ、右翼フェンス直撃の先制打。足を引きずりながらも一塁ベースに立つ背番号44はファンは心から感動した。

 この2年目の助っ人がチームの優勝を願っている気持ちの現れは、次の4番・掛布雅之三塁手の一ゴロでの走塁でハッキリと分かった。完治していない右足をかばうことなく、二塁に猛然とスライディング。ヤクルト・水谷新太郎遊撃手が送球できず、掛布が一塁に残った。これが続く5番・岡田彰布二塁手の19号2点本塁打を呼んだ。「試合に出る以上、当たり前のプレーさ」とサラリと言ってのけた。

 バースのバットはさらにさく裂する。1点差に詰め寄られた5回、無死二塁で、3番手の阿井英次郎投手から、今度は右翼線に適時打を放ち6点目。「いつものオレの足なら2本とも三塁打だったな。今日は歩いてもいいようなホームランを狙ったんだけどなぁ。こういう時に限って、打てないなあ」とジョークも冴えた。しかし、ストッキングを脱ぎ、テーピングを外した骨折している右足の甲は痛々しく腫れ上がっていたが、「チームが勝てばいいのさ」とケガについては一言も弱音を吐かなかった。

 主砲のガッツあふれるプレーに阪神ベンチ、ナインは燃えた。吉田義男監督は山本和行投手との左右のダブルストッパー、中西清起投手を6回途中から投入。中西が3奪三振を含む打者10人を完璧に押さえ込むと、呼応するように7回、1番の真弓明信右翼手が阿井からトドメの19号ソロを左翼へ叩き込んだ。

 阪神の死のロード初戦白星は、81年以来実に4年ぶり。巨人戦の後の試合は必ず落としていたが、このヤクルト戦の勝利で“初白星”。首位広島に0・5差と迫った吉田監督は「「バースがよく打ってくれた。あの気迫に引っ張られて、チームが一丸となった」と満面の笑み。

 阪神は死のロードで途中6連敗したものの、14試合で7勝7敗のイーブンで乗り切った。そして8月27日、甲子園での広島18回戦に10-2で圧勝した阪神は、待望の首位を奪回し、そのまま走り抜けた。07年まで球団史上唯一の日本一は、青い目の外国人選手のファイティングスピリッツがもたらしたといっても過言ではない。

【2008/8/6 スポニチ】
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