【8月9日】2003年(平15) 

【広島5-1阪神】対阪神6勝12敗。ゲーム差にして20・5。5位広島にとって、この日の広島市民球場での1勝は大きな意味をなさなかったが“アニキ”の前で弟分が意地の代打本塁打を放った。

 広島・新井貴浩内野手は6回、一死二塁の場面で代打に登場。シーズン11勝3敗の伊良部秀喜投手から7号左越えの2点本塁打を放った。

 6月28日、ヤクルト14回戦(広島)以来、25試合105打席ぶりの一撃だった。「散々チャンスをつぶしていますから。まだまだです」。伊良部KOのアーチにも全く笑顔はなかった。

 屈辱のピンチヒッターだった。89試合目にして初のスタメン落ち。開幕から名を連ねた4番の座は73試合目で降格したが、先発出場し続けることでプライドを保ってきた。それすらも守れなかった。セ打撃成績ブービーの28位で山本浩二監督も決断せざるを得なかったのだ。

 7本目にして初めて勝利につながった本塁打。打球が飛んでいった方向には、前年までの広島の4番・金本知憲左翼手がいた。かつてアニキと慕った金本がFA権を行使して阪神に移籍。代わって新4番に指名された時から、新井の苦しみが始まった。

 プロ4年目にして打率2割8分7厘、28本塁打75打点の自己最高の成績を残した02年の新井。しかし、金本が去った後の4番にはベテランの前田智徳外野手という声が圧倒的で、まだ26歳の新井には…という声が主流だった。それを押し切って、山本監督は新井を主砲に任命した。

 開幕してすぐに新井に冷たい汗が流れた。「前年までとはまったく配球が違う。打てる球が全く来ない」。厳しい内角攻め、苦手な縦系の変化球で徹底的に攻められた。凡打どころか、バットが気後れして出ず、振ったときにはもうボールはミットの中ということも珍しくなかった。秋に痛めた背中の影響もあって、打撃は全くふるわず序盤は1割台の数字で推移。4番の不振で広島は開幕から優勝争いに加われなかった。

 それでも市民球場のカープファンは「4番・新井」に期待し、毎回声援を送った。結果が残せず、目の前の風景がにじんだ。監督室に呼ばれたのは5月のことだった。「苦しいか?」。不覚にも涙が止まらないほど泣いた。「前を向け。やるしかないんだ」。4番の苦しみを嫌というほど知っている山本監督から言われた言葉は忘れられなかった。

 新井はこの代打本塁打からもきっかけがつかめず、03年は2割3分6厘、19本塁打とルーキーイヤーの99年を除けば打率は最低の成績に終わった。広島から離れた金本は阪神で優勝を経験した。

 新井が名実ともに広島の4番となったのは、05年。43本塁打で初の本塁打王と初の3割(3割5厘)の成績を残したシーズンだった。その時、指揮官は山本から、青い目のマーティー・ブラウンに。元祖・ミスター・赤ヘルの目の前で、その才能が満開になることはなかった。

 そして、08年。金本の後を追うように阪神へ移った新井は、元広島コンビでチームを引っ張り、阪神はセ・リーグ3年ぶり制覇に近づいている。タイガースでは3番の新井も、北京五輪の日本代表では首脳陣の信頼が厚い4番打者。我慢して、ファンから罵声を浴びながら使った、日本代表の山本コーチと“再会”した。

 背番号25が泣きながらたどり着いた真の4番の座。世界の大舞台の場で本領を発揮し、日本に金メダルをもたらすだろうか。

【2008/8/9 スポニチ】
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