現役時代、攻守に華麗なプレーでファンを魅了した真弓明信氏。だが、それは人一倍の努力で試練を乗り越えてきた成果だった。

 現役時代は身長173センチ、体重70キロ。「高校時代から体が小さい分、誰よりも練習していた」。そう話すのは、柳川商高(現柳川高)の同級生で、太平洋(現西武)、阪神などでチームメートだった若菜嘉晴氏(54)。高校の2年後輩で現飯塚高監督の吉田幸彦氏(53)は「寮の廊下で黙々と素振りし、一人で汗びっしょりになっていた」と思い起こす。

 「体の小さいおまえにプロは無理」と言った当時の監督、福田精一氏(69)は「それでも、本人はプロに行くとの信念があった」。高校時代のドラフト指名は見送られたが、社会人野球を経て、プロで大成。福田氏は「今は『監督は見る目がなかった』と言われます」と笑う。

 73年の太平洋入り後も、苦労が多かった。入団4年目で球団がクラウンライターへ身売り。1軍に定着し、パ・リーグのベストナインとなった78年オフには球団は西武に変わり、阪神へ放出された。阪神側がスター選手の田淵幸一捕手、古沢憲司投手の2人だったのに対し、西武側は真弓氏を含めて4人と、数で補う変則トレード。通告を受けた真弓氏は周囲に「絶対に見返してやる」とこぼした。

 阪神では試行錯誤の末、持ち前のコンパクトな振りに加え、長打力を身に着けた。若菜氏によれば、900グラムを切るバットが一般的だった時代に、あえて反発力がある1キロ近いバットを使用。努力でパワーヒッターに変身したという。

 「恐怖の1番打者」として看板選手となった後も、浮かれることはなかった。日本一となった85年当時、豪傑集団の阪神では遠征先のホテルなどで門限破りが続出したが、そんな中で外出を控え、体調管理に徹した。当時を知る関係者は「細身なため、スタミナ不足を気にしていた。シーズン中は戦闘モードを崩さなかった」と話す。ストイックな姿勢は42歳まで現役を続けられる要因となった。

 たゆまず自らの才能を磨き続けた情熱は、今後阪神のチーム改革に注がれていく。

【2008/10/26 毎日新聞】
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