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【1月25日】1988年(昭63) 

 歓喜の日本一から3年。一敗地にまみれて最下位に転落した阪神の再建を任され、村山実監督が16年ぶりに指揮を執ることになった。チーム立て直しのキーマンとして村山監督が指名したのは、頼れる2人の助っ人、ランディ・バース一塁手と前年阪神入りしたメジャー58勝右腕マット・キーオ投手。現役時代の情熱そのままに、村山監督は熱い思いを便せんにしたため、海の向こうの両選手に送った。

 カリフォルニアに帰省しているキーオからその返事が届いたのがキャンプインまで1週間を切ったこの日。待ち焦がれた“恋人”からの手紙に、慌しく封を切るとそこには指揮官を感激させる言葉が記されてあった。

 「偉大なボスであるあなたのために、精一杯努力し、全力で野球に取り組むことを誓います」。文面はそう長くはなかったが、村山監督はその思いを感じ取ってくれただけで十分だった。「恋女房からもらったみたいや。ホンマ、嬉しいわ。彼のやる気が伝わってくる」。

 この“ラブレター”で全幅の信頼をおいた村山監督は、キーオ自身に調整法を任せ、ハワイで体を作った後、2月中旬にキャンプに合流するというプランを認めた。

 1年目で11勝を稼いだキーオは、2年目さらに進化して来日した。変化球はカーブに加えチェンジアップをレパートリーに加えて好投。開幕4連敗スタートとなった阪神だが、シーズン初勝利をもたらしたのはこの右腕。88年4月14日、甲子園での巨人2回戦で3失点も10個の三振を奪い完投。変化球投手のイメージのあるキーオがこの日はストレートで押し、時折投げるチェンジアップが効いた。

 「ボスのためにもどうしても勝ちたかった」。手紙で約束した通りの気迫あふれる投球に村山監督は号泣。「キーオがよく投げてくれた。1つぐらい勝ってこれじゃ困るんやけど、きょうはこれで堪忍してや…」と言葉に詰まる指揮官。くしくも29年前の1959年(昭34)4月14日は、ルーキーだった村山投手が初登板初完封を飾ったメモリアルデーだった。

 キーオはまさしく村山阪神の防波堤だった。シーズン中6回にわたって連敗ストッパーとなり、チームに貢献。12勝12敗と黒星もそれなりに付いたが、防御率は2・76。投手成績6位は同じ外国人で巨人に鳴り物入りで入団したビル・ガリクソン投手の3・10(14勝9敗)より良く、打線の援護さえあれば…という投球内容だった。

 キーオの孤軍奮闘もむなしく、開幕投手の仲田幸司が6勝9敗、池田親興が7勝10敗、野田浩司は3勝13敗と大きく負越し、阪神は2年連続最下位。村山政権2年目でも15勝9敗とチーム全体の勝ち星54勝のの3割近くを稼いだキーオの頑張りもチームは5位に終わり、この年で村山は辞任。ボスを男にすることはできなかった。

 阪神での4年間での成績は45勝44敗。メジャー復帰を目指し、エンゼルスとマイナー契約したキーオだが、オープン戦でベンチに座っていた際ファウルが頭に直撃し重体に。これが致命傷となり、大リーグ再昇格を果たせないまま、マイナー選手として現役生活を終えた。その後も後遺症に悩まされ、酒におぼれ、トラブルがたびたび伝えられるのは残念である。

 実は阪神での来日は2度目の日本の生活だった。父のリチャード・マーティン・キーオは外野手とし68年に南海に在籍。134試合に出場し2割3分1厘、17本塁打、46打点の成績を残した。当時、13歳だったキーオ少年は日本のテレビ番組に夢中。選手として来日後も、日本の番組をビデオに収めてはコレクションとしていたという。

【2009/1/25 スポニチ】
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