【1月31日】1998年(平10) 

 97年、18年ぶりに2位となった横浜は大矢明彦前監督の下でバッテリーチーフコーチを務めていた権藤博を新監督に昇格させた。迎えた98年の沖縄・宜野湾キャンプイン前日。ホテルの大広間に選手、スタッフ全員集合の号令がかかった。

 中日、近鉄、ダイエー、そして横浜とコーチ歴計17年。その手腕は既に実証済みだったが、監督は初めて。何を話すのか全選手、スタッフが注目する中、前に出た新監督は言った。「皆さんプロですから、プロらしくやって下さい」。

 それだけ言うと、後は何も言わずに退席した。登場してから退室するまでわずか10秒。これが権藤監督のキャンプ中、最初で最後の全体ミーティングだった。拍子抜けするほど短いあいさつに慌てたのは報道陣。権藤監督の後姿を急いで追った。

 ミーティングでの言葉の意味を尋ねられると、権藤特有のぶっきらぼうな言い方で説明した。「選手は大人扱いする。プロなんだものそれくらいの自覚があって当然。監督やコーチがあれこれ言う前に、自分でやりなさいということ」。これまた手短に言うと、さっさと喫茶店にコーヒーを飲みに行ってしまった。

 権藤監督はキャンプ中、本当にミーティングをしなかった。しかし、それは全体ミーティングの話。個々の選手とのミーティング、グラウンド上での対話は常にしていた。

 「本音は雑談の中から出てくる。かしこまった会議でいい考えが出たためしがない。生きたミーティングなら私はどこでもします」というのが持論。公式戦に入っても、横浜スタジアムの外野のフェンス前に行っては、アップ中の選手をつかまえて話をする。ひと言、ふた言で終わることもあれば、数分に及ぶこともあった。そこから権藤監督は選手それぞれの野球への考え方、日ごろの思いを聞くことができた。

 ミーティングだけでなく、権藤監督が示した方針は何から何まで、それまでの多くの監督とは全く違っていた。「俺のことを監督と呼ぶな。“権藤さん”でいい。監督と呼んだら罰金1000円」「コーチが付っきりでやる夜間練習は廃止する。ただし自分がやりたいならやってもいい。その代わり全体練習で手を抜くな」「コーチの鉄拳制裁厳禁。選手を子ども扱いせず、ルーキーでもひとりの大人として扱え」…。

 監督兼投手コーチを自任していた権藤は、投手交代の決断はしても、攻撃に関してはほとんど山下大輔ヘッドコーチ、高木由一打撃コーチ任せ。時には選手同士に決定権を与えていた。1番・石井琢朗遊撃手と2番・波留敏夫中堅手はアイコンタクトで盗塁、エンドランを決めていたこともあった。

 開幕戦で阪神相手に3連勝をし好スタートを切った横浜は、6月20日、広島12回戦(函館)に6-3で勝つと以後首位をキープ。自慢のマシンガン打線とローテーション化された中継ぎ投手陣、絶対のストッパー佐々木主浩投手という3枚看板で38年ぶりの日本一を勝ち取った。

 円熟期を迎えた選手の技量は、監督から大人扱いされたことによって、縛られることなく、自由に力を発揮できた。加えて、前年2位の悔しさが起爆剤にもなった。選手会長の駒田徳一塁手の言葉を借りれば「抑えつけられていた人が一揆を起こしたような優勝」だった。

 しかし、精神的には大人になりきれていないチームだった。挑戦者だったはずの横浜ナインは、1度の優勝で実力を過信し、翌99年以降は投打、ベンチワークともに歯車がかみ合わず、好不調の波が激しかった。指揮官と主力選手の一部との間に考え方の相違が生まれ、優勝時3連敗が最長だったものが、大きな連敗をするようになった。

 00年6月、権藤監督は試合後、就任3年目で初めて緊急ミーティングを行った。それぞれが別の方向を向いてしまったチームは、急に召集したミーティングでまとまるはずもなく、Aクラス確保がやっと。日本一、3位、3位という球団史上最高の成績を残しながら、権藤監督はその座から去った。

 以後、横浜は森祇晶、山下大輔、牛島和彦と3人の監督が2年ずつで退陣。あの夢をもう一度と、横浜優勝の土台を作ったと評価の高い大矢明彦監督が再登板し、09年は3年目を迎える。

 過去2年、4位、6位とBクラスからの脱出さえままならない横浜。大矢監督就任以来「なせば成る」のスローガンを掲げてきたが、09年こそ10年近くに及ぶ迷走に終止符を打つことができるのか。ここ40年以上、横浜は前身の大洋から4年以上監督を務めたことがない。大矢監督が来季も続投すれば、60年(昭35)から67年までの8年間大洋の指揮を執った三原脩監督以来の長期政権となるが、道は決して平坦ではなさそうだ。

【2009/1/31 スポニチ】
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