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【7月16日】1992年(平4) 

 【広島5-1中日】「持ち球を駆使して1試合投げきってこそ投手の作品は完成する」。それが美学だった。が、この日は信頼できるストッパーにすべてを託し、その瞬間を待った。

 広島の守護神・大野豊投手が中日の攻撃を15球で3者凡退に仕留めると、ベンチでタオルを肩にかけた17年目、35歳の北別府学投手は微笑みながら四方八方から握手を求める手を次々と握った。

 ルーキーイヤーの76年10月12日、神宮球場でのヤクルト24回戦で初勝利を挙げてから、480試合目の登板でたどり着いた通算200勝。「目標だったオールスター前に達成できて、正直なところホッとしている。大野さんをはじめ、みなさんのおかげでここまでこれた。まだ通過点だと思ってこれからも頑張る」。球団創設から42年、広島は初の200勝投手を輩出した。

 90年の右ひじ痛以来、投球内容は変わった。真っ直ぐは130キロ台。それにスローカーブ、シュート、スライダーを織り交ぜた。生命線は制球力。ボール半分の出し入れで、中日打線を手玉に取った。8回6安打3三振。四球はわずか1つ。三塁を踏ませたのは、唯一の失投と言っていい大豊泰昭一塁手への本塁打の時だけだった。

 名球会入りまでの35年間、家族を筆頭にさまざまな人に支えらきた。中でもこの3人の影響力は大きかった。

 まずは入団時の古葉竹識監督。1年目9試合で2勝1敗の成績を残したが、投球回数は29回3分の1止まり。というのも30回を超えれば、新人王候補の対象になってしまうため、「来年はもっと勝てる。今の成績では受賞は無理」と判断した古葉監督が2年目に一生に1度の賞に挑戦させた。

 結果は5勝7敗で、新人王は8勝9敗の大洋・斉藤明雄投手に奪われたが、その時の悔しさと恩を感じた北別府は、3年目の78年から11年連続2ケタ勝利。79、80、84年の古葉カープ優勝に貢献した。

 「プロは相手を見下してマウンドに立たなければいけない」。それを目だけで教えてくれたのは、巨人・王貞治一塁手だった。2年目の77年、巨人戦で登板し王と対戦した北別府はマウンド上で足が震えるほど怯えた。「目が合ったときビビった。まさにヘビににらまれたカエル。内角を狙っているのに、球が吸い寄せられるように真ん中に入っていく。後にも先にもそんな人は王さんだけだった」。以来、北別府は、相手打者にけんか腰で向かっていった。勝負に大切な気迫と闘争心は、王との対戦で学んだものだった。

 一番感謝しなければならないのは母親だった。小学生の時から巨人ファンで将来はプロ野球選手が夢だった学少年は、中学に入って最初軟式テニス部に入部した。「厳しい野球部に入ったら、帰りが遅くなって勉強についていけない」という理由で母親が反対したからだった。それでも野球への思いは断ちがたく、夏休みに入るこっそり野球部の練習に参加していた。

 帰りが遅いのを気にしていた母親だが、あえて何も言わなかった。学少年の野球への思いを知った母は決して責めはせず、黙認したのだった。「本当に感謝している。お袋が見逃してくれなかったら、野球やってないわけだから」。

 名古屋で20世紀最後とのなる200勝の金字塔を打ち立てた瞬間、母は三塁側のスタンドの片隅で涙を何度もふきながら、プロの世界で超一流になった息子の姿をまぶたに焼き付けていた。


【2009/7/16 スポニチ】
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