【8月4日】2008年(平20) 

 【中日5-1巨人】巨人アレックス・ラミレス左翼手の打球が中日・中村一生右翼手のグラブに収まった瞬間、3万8333人の大観衆で埋まったナゴヤドームはまるでドラゴンズが日本一になったかのようなお祭り騒ぎになった。何百本と投げられた紙テープ、紙吹雪が舞い、思い思いの歓声がいたるところで上がった。

 127球、4安打7三振1失点。完投でシーズン7勝目を飾ったのは、中日一筋25年の左腕投手。谷繁元信捕手に抱きつかれ、ベンチからダッシュで駆けつけた立浪和義内野手に何度も叩かれるという手荒い祝福を受けた。午後8時56分、大学を出て中学の社会の教師になろうとしていた山本昌が、四半世紀の歳月を経てプロ野球の世界で通算200勝を達成した。

 胴上げが始まった。88キロ、いや本当は98キロある体が4度も宙に舞うと、さっきまで笑っていた目が急に潤んだ。「泣かんとこうと思ったけど、胴上げされると、やっばりね…」。42歳11カ月での200勝達成は、04年に巨人・工藤公康投手が41歳3カ月で成し遂げた記録を上回る最年長記録。現役25年目の大台到達も工藤の23年を越えた。

 「野球に関してうそをつかなかった。サボったら絶対に成績にはね返ってくる。常に進化していこうという気持ちをもってやってきたつもり」。天真爛漫、細かいことにはこだわらないラジコンとクワガタムシ、それにミルクティーが大好きな子供のような背番号34だが、こと野球に関しては妥協も甘えもなかったことは、200勝以上に誇りだった。だからこそ、照れながらもこんな言葉が口にすることができた。「自分でも頑張ったと思う」。

 山本昌について、誰に尋ねても第一声は「最初は200勝する投手なんて思ってもみなかった」。小学4年生で初めて試合で投げた時のスコアは0-36で完投敗戦投手。中学でも控え投手、神奈川の強豪・日大藤沢高に進学するもここでもエースナンバーはもらえなかった。

 甲子園にも出場できなかった、ただ左手で投げているだけの投手に目をつけたのが、中日の高木時夫スカウト。現役時代捕手だった男の目には実績よりも生の投球を見てひらめくものがあった。

 200勝を達成した24人の投手の中で、2年目までに1勝もできなかったのは山本昌だけ。2年目どころか、初勝利は5年目、88年の8月だった。真っ直ぐは130キロ台、驚くような変化球があるわけでもない。入団4年目に就任した星野仙一監督が、ブルペンで「もっと気合い入れて投げろ!」と怒鳴っても、140キロのボールは投げられなかった。

 それでも200ものウイニングボールを手にすることができたのは、88年に半ば戦力外通告のような形で修行に行かされた米国留学で学んだ教えと運命のボールとの出会いがあったからだった。

 山本昌の師は留学時に面倒をみてくれたロサンゼルス・ドジャースのアイク生原会長秘書兼国際担当だった。「自分の体の前でボールを離せ。ストライクを投げろ。上から投げ下ろせ」。まるで小学生にアドバイスするような基本中の基本だが、今でも山本昌の投球の軸はこの教えに基づいている。

 そしてウイニングショットのスクリューボールを留学でマスターした。チームメイトの内野手が遊びで投げていたものを山本昌に「マサま投げてみろよ」と勧めたのがきっかけだった。80年代、日本の投手で投げる投手は稀だった。球審を務めた日本の審判も目を丸くした変化球が、右打者の外角低めに逃げるように落ちると、面白いようにアウトが取れた。

 「清原や松井は生まれ変わって、また野球選手になっても同じかそれ以上の成績を残せる。オレは絶対無理。しつこく粘り強くやってきた上に奇跡があったからこそここまでこれた。生まれ変わったらこの数字は絶対無理」と山本昌。通算204勝まで伸ばした勝ち星。あと8勝すれば、杉下茂投手の持つ球団記録211勝を上回る。26年目の09年は8月4日現在0勝3敗。ここまで来た以上、もう一度山本昌のいう“奇跡”をみせてほしい。


【2009/8/4 スポニチ】
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