【9月27日】1995年(平7) 

 薄々覚悟はしていたが、いざ切り出されるとやはりショックは隠しきれなかった。

 「体力面から見てこのあたりが潮時ではないかと判断し、来年の戦力から外しました。選手契約は今季限りということです」。時間にして20分弱。甲子園球場内の球団事務所で、23年目のベテラン、阪神・真弓明信外野手は三好球団社長から直々に戦力外通告をされた。

 既に42歳。95年のシーズンは故障もあって、出場はわずか24試合で5安打。78年(昭53)、クラウンライターが西武に生まれ変わるのと時を同じくしてトレードで阪神へ移籍してから17年。最低の出場数と安打数だった。

 球団が用意するコーチのポストに就くか、それとも現役続行して他球団へ移籍するか--。とにかく来季以降タテジマのユニホームを着て、プレーヤーとして試合に出ることだけはできなくなった。「まだ自信がある。現役としてやって行きたい」。即答は避けたものの、真弓の気持ちは移籍に動いていた。

 球団も断腸の思いだった。その2週間前、阪神は戦力外選手の決定やドラフトでの指名選手を絞る拡大編成会議を開いた。会議の主題はこの年のドラフトの目玉、大阪・PL学園高の福留孝介内野手の指名をどうするか、ということより真弓の身の振り方についてだった。

 現場サイドの意見では「ひと振りにかける代打稼業なら真弓を超える選手はいない。現役でまだ使える」というもの。基本線は残留、現役続行だった。しかし、選手のコンディションを預かるトレーナーサイドからは違う見方が出た。

 「名前だけなら存在価値もある。休み休みならやれるかもしれないが、体力的に見て1年間フルにやるのは難しい。瞬発力も足腰も衰えは隠せない」。厳しい指摘だった。

 85年の阪神日本一の功労者、その後のチーム崩壊と平行して次々とV戦士が去る中で、数少ない優勝経験者として存在感を発揮してきた。前年94年は代打として30打点をマークする日本記録を打ち立てた。これだけ実績と人気ある選手を若返りするためというだけで簡単に切れない。真弓の進退だけで、実に4時間を超える異例の話し合いが本人のいないところでもたれたものの結論は出ず、最終的に三好球団社長一任ということになった。

 三好球団社長は情の部分を排除して、冷静に決断した。「使えるベテランがベンチにいれば、現場はつい使ってしまう。3年後、5年後のチームを思い描いた時、それは若手のチャンスを摘むことになる」。真弓への引退勧告は自ら行った。

 10月6日、甲子園での最終戦となった対横浜25回戦。「6番・一塁」でスタメン出場した真弓は2打席目で現役1888本目となる右前打を斎藤隆投手から放った。最後の打席は遊ゴロ。「これで阪神のユニホームは脱ぐが、一生懸命次のステージで頑張りたい」。5万人は入る甲子園に、わずか1万6000人の観衆だったが、真弓はタイガースファンに別れを告げた。

 しかし、その実力を認めながらも、真弓獲得に手を挙げる球団はなかった。11月12日、甲子園で阪神-巨人のOB戦終了後、引退を発表。あれから14年。近鉄のコーチを経て、09年に再度タテジマのユニホームに袖を通した真弓監督。采配についてあれこれ言われながらも、後半戦に盛り返して、クライマックスシリーズ進出をかけてのし烈な戦いを繰り広げている。


【2009/9/27 スポニチ】
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