【9月19日】2003年(平15) 

 いつかはこの日が来ることが分かっていながら、いざその日を迎えるとやはり涙が出た。

 西武一筋22年、常勝ライオンズの正妻として活躍した伊東勤捕手が引退を発表。目を真っ赤にした41歳は「“引退”の二文字は気持ちの中になかった。今でもやれるという思いはあるが、駄々をこねていてもいけないし、きっぱりと決めた」と、自分に言い聞かせるように引き際を口にした。

 できればずっと現役選手、野球小僧でいたかった。そんな伊東が潮時を感じ始めたのは、開幕直後の03年4月2日、オリックス3回戦(ヤフーBB)。ヒットで出塁した伊東は、高木浩之二塁手の長打でホームに突入する寸前で左太ももを肉離れした。「筋肉がグニャっいなった。大丈夫だよ」と軽症を強調したが内心穏やかではなかった。

 「初めて肉離れを起こした。年を感じたのはこの時。気持ちと体が一致しないと思った」。ケガに強く、滅多なことでは欠場したことはなかった。12年連続100試合以上出場、大型ルーキー、トレードでの補強でライバルが入団しても、マスクをかぶる数では常にチーム一。引退、指導者への転進を促された02年でも118試合に出場。「体力は衰えるが、頭脳は進化する」という伊東の言葉通り、西武はこの年4年ぶりにリーグの覇権を奪回した。

 同時に伊東の頭の中にこんな思いが沸いてきた。「リーグ優勝できたことで選手としての役目は終わったかな。今年は次につなげる若い選手を育てないと」。総合コーチ兼任2年目。視線は現役選手から、指導者に次第にシフトしていた。

 その矢先の肉離れ。故障明けもバッティングは1割台から脱出できず、マスクをかぶっては相手の走者に走られ、盗塁を刺せなくなっていた。気持ちも肩も潮時だった。

 引退表明から1週間が過ぎた9月27日、西武ドームでの近鉄最終戦。松坂大輔投手とバッテリーを組み、現役最後の2244試合目に臨んだ。打席が1度回ってくるまでしか、松坂のボールを受けられない。少しでも22年間やってきた“財産”が出せれば…その思いでミットを構えた。

 初回、2番水口栄二二塁手に意表をついた3球ストレート勝負で見逃し三振に仕留めた。バッターの考えていることを読み、その雰囲気を感じ、ベストの選択をする。常勝西武のグラウンドの司令塔の頭脳はまだまだ試合で十二分に通用した。

 2回2死二塁。8191打席目のバッターボックス。もう目の前がかすんでいた。近鉄の右腕ケビン・バーン投手の外角ストレートを打たされてしまった打球は平凡な二ゴロ。事実上、背番号27と別れを告げる時が来た。

 「ここ数年、消えかかる火を気力でカバーしてきましたが、きょうこの日を持ちまして伊東勤は完全に燃え尽きました。野球人生に悔いはありません」。言いたくても言えなかった苦しい胸のうちを引退のあいさつで一気に吐露すると、涙があふれ出た。

 休む間もなく、西武の第6代監督に就任した伊東。その頭脳はすぐに結果として現れた。監督1年目の04年、見事球団12年ぶりの日本一に輝いた。「もう一度日本一になりたい」と事あるごとに言っていた男は、眠れる獅子を再度王者へと導いた。


【2009/9/19 スポニチ】
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