【11月10日】2001年(平13)

 入団した頃には思いもよらなかった理由で、30歳の若さでユニフォームを脱がなければならなくなった。中日球団史上屈指の左腕、今中慎二投手が現役引退を表明した。

「自信がなくなった。このままでいいのかなって思ったら、野球をやろうという気持ちが薄れた」。かつて投手として最高の栄誉である沢村賞にも輝いた左腕にしては、公式戦での引退登板もなく、ドラゴンズ系の新聞社を除いてはその扱いも大きくはなく、寂しいすぎる引退会見。年俸は最高額の1億6000万円(推定)からこの時、4分の1以下にまで下がっていた。目に見える成績だけがものを言う世界の厳しい現実だった。

 4年連続2ケタ勝利を挙げた96年のシーズン中から痛み出した左肩と5年間格闘してきた。その間の勝ち星はわずか4勝(11敗)。先発完投が当たり前だったエースが、肩痛の後は完投ゼロ。140キロ台後半の小気味良いストレートで三振を奪ってきたが、最後は120キロ台を出すのがやっと。得意のカーブでかわす投球にも限界があった。

 「肩を壊すなんて思いもしなかった。一番大事なことは速い球を投げるよりもけがをしないこと」。言葉の端々に悔しさが言葉ににじみ出た今中。通算91勝で終わるはずのなかった13年間のプロ生活に悔いはありませんとは、どうしても言えなかった。

 本当は阪神ファン、だった。大阪桐蔭高のエースとして巨人をはじめ多数の球団の熱視線を浴びた今中だが、大好きな阪神ではなく、本命は中日だった。ドラフトで中日以外の指名なら、社会人野球に進むとまで周囲に宣言していたほどだった。高校の監督と中日の担当スカウトが同じ大学の先輩後輩という強力なパイプもあったが、ドラフトにかかった88年当時、阪神は優勝からチームが崩壊したのに対し、中日は熱血星野仙一監督の下、リーグ制覇をしたばかり。18歳の目にはまぶしく見える球団だった。

 この“逆指名”は中日にとってありがたいことこの上なかった。中日は同年、ドラフトの目玉だった名古屋商大の大豊泰昭内野手を球団職員にして囲い込み、1位指名を予定していたが、高校NO.1左腕のラブコールで大豊を2位に回して、今中を単独指名できることになった。中日にとっては1位クラスを2人も指名できた最高のドラフトとなった。

 甲子園出場経験こそないが、「高卒でもプロですぐ使えるストレートを投げる」という各球団スカウトの一致した見方は評判に違わず、2年目で早くも10勝。エースとしての階段を着実に上っていった。

 あまり知られていない話だが、近鉄・野茂英雄投手が大リーグに挑戦した95年、メジャースカウトは野茂以上に今中を高評価したレポートを送っていた。2年間巨人に在籍した、シンシナティ・レッズのデーブ・ジョンソン監督はシーズン中にもかかわらず、中日に「メジャーの投手とのトレードができないか」と真剣に検討したというほど。全盛期に今中が海を渡っていたら…野茂と並んで日本人大リーガーのパイオニアになっていたに違いない。


【2009/11/10 スポニチ】
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