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【10月6日】2001年(平13) 


 【ヤクルト6-4横浜】1メートル68、76キロの体が高く高く、5度宙に舞った。6回目はとうとう回転して、危うく頭から地面に落ちそうになったところを、なんとかナインの腕で支えられた。

 優勝に王手をかけて足踏みすること5日間。若松勉監督率いるヤクルトスワローズが97年以来4年ぶり6度目のセ・リーグ制覇を果たした。

 敗色濃厚のゲームを助っ人ロベルト・ペタジーニ一塁手の39号3点本塁打で8回に振り出しに戻すと、延長10回に横浜・山田博士投手の暴投で勝ち越し、ひざの痛みをおして強行出場の古田敦也捕手の中前適時打で2点リード。最後は守護神・高津臣吾投手が谷繁元信捕手をショートへのゴロに仕留めた。

 胴上げ後の優勝監督インタビュー。嬉しいし、興奮もしていた。同時にプレッシャーからの解放、やっと勝てたというホッとした気持ちもあった。さまざまな感情が交差した若松監督は一瞬頭の中が真っ白になった。そしてとっさに出てきた言葉は、前代未聞の“名言”となった。

 「ファンの皆様、本当に…あのぉ、おめでとうございます!」

 ファンもナインも大爆笑。目の前で歓喜のシーン見せつけられ、いらついていた横浜ファンまで帰り支度をしながら思わず吹き出してしまった。おめでとうと言われる立場の監督が、逆にファンに祝福のメッセージ…。真面目でぼくとつだが、どことなくユーモラスな若松監督の一面がよく現れている球史に残る名言となった。

 3度の日本一に輝いた野村克也監督からチームを引き継いで3年目。2年連続4位で迎えた契約最終年に懸けた。しかし、エースの川崎憲次郎投手が中日にFA移籍、助っ人のハッカミー投手も退団した。入来智、ホッジス投手ら移籍や途中入団の投手に頼らざるを得なかった。

 王手をかけながら3試合足踏みしたことで「もしこのまま負け続けたら、オレ一人で責任取ればいいんだから」と周囲には笑顔で振舞っていたが、“もしかしたら…”という思いが頭から離れなかった。それは体調に表れた。横浜戦前日の5日、若松監督は発熱していた。疲れだけでなく、優勝への重圧に指揮官の体が悲鳴を上げた。

 95年、将来の監督候補として2軍監督に就任した当時、現役通算打率3割1分9厘を残した“小さな大打者”はレベルの低いファームの選手に日々いら立っていた。1軍監督になっても誤算、見込み違いで選手が思うように働かないことも多々あった。

 それでも若松監督が7年間で学んだことは「我慢すること」。未熟な投手陣をやりくりし、日本のストライクゾーンに対応しきれない新加入の助っ人、アレックス・ラミレス外野手を辛抱強く使いながら自ら指導。後半戦に本塁打を量産し、27本塁打を放つ“恐怖の7番打者”に進化させた。

 「現役の時も優勝してMVPになったけど、今回の優勝は比べものにならないくらい嬉しい。選手と一緒に苦労したかいがあった」。決して雄弁でなく、とつとつと語るその口調が聞いている者の心を打った。


【2009/10/6 スポニチ】
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