【11月30日】2008年(平20) 


 決断の決め手は“自分の野球スタイル”だった。子供の頃から憧れていた阪神へのFA移籍が濃厚、と伝えられていた横浜・三浦大輔投手が最下位のチームに残留した。

 「横浜や他球団を客観的に見られたし、FA宣言して良かったと思う。一生で一番頭を使った。しんどい思いもしたけれど、本当に良かった」。球団事務所で会見に応じた三浦の残留宣言。球団職員の中には涙ぐむ姿さえ見られた。

 職員が涙ぐむほど、エースが横浜を出て阪神入りするという予想はかなり根強いものだった。3年契約総額10億円の提示、横浜よりも同年数で2億円高い阪神。リーグ2位でここ数年毎年上位争いを演じている優勝に近い球団だった。新任の真弓明信監督自ら出馬、通算で30敗以上している天敵を味方にしようと熱く阪神入りを勧めた。

優勝から遠ざかって10年。三浦が孤軍奮闘すれども、21世紀入ってから8年で5度の最下位で年俸も思うほど上がらない横浜。三浦もプロ17年目。もう先はそれほど長いとは言い切れない。まだ納得のいく投球ができるうちに、優勝の美酒を味わいたい。しかも生まれ育った関西で、小さい時からファンだったタイガースの縦ジマのユニホームを着て達成できれば親孝行にもなる。「気持ちは五分五分」とマスコミに言い続けた三浦だが、周囲は間違いなく阪神入りとほぼ断定していた。

 が、三浦は横浜に残った。好条件にも優勝にあと一歩というやりがいも振り切って、古巣に残った。ファンの熱い声、チームに愛着があったことも否めないが、三浦が自問自答し続けた12日間の解答がこれだった。

 「(奈良・高田商高での)高校時代も打倒天理、打倒智弁学園で甲子園に出たいと思ってやっていた。横浜は今年優勝から一番遠い位置だった。三浦大輔の原点は何かと考えたら、強いチームを倒して勝つこと。強いチームに勝って優勝したい」。7年連続負け越し球団の関係者、ファンの涙腺がゆるまずにはいられない、三浦大輔らしい男気あふれる残留宣言だった。

 番長、どころか紳士であった。結果として断ることになった阪神にも誠意を見せた。残留会見前、朝一番の飛行機で大阪へ飛んだ。「電話だけで気持ちは伝わったから」という阪神のフロントの返答も、「けじめをつけなければ。どうしてもお会いしたい」と自ら球団事務所に出向き、阪神に入れなかったことを詫びた。「律儀な人ですね」。虎キラーの三浦獲得に失敗したショックは大きかったが、沼沢球団本部長は三浦の決断に心から敬意を表し、その背中を見送った。

 三浦の“一番遠い位置からの挑戦”は09年、前年と変わらずまだ一番遠い位置のままで足踏みしてしまった。10年はプロ19年目。背負っている18番の背番号を超えるキャリアとなった。投手コーチとしてダイエー、巨人などで手腕を発揮してきた尾花高夫新監督が就任し、積極的な補強、トレードで横浜は大きく変わろうとしている。それでも投手陣の柱は不退転の決意をした三浦以外考えられない。


【2009/11/30 スポニチ】
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