【10月16日】1985年(昭60) 


 【阪神5-5ヤクルト】ヤクルト・角富士夫三塁手が放ったゴロが、阪神・中西清起投手のグラブにスッポリと収まった瞬間、タイガースナインの誰もがマウンドに向かって一目散に走った。

 一塁のベースカバーに入らなければならないはずの木戸克彦捕手も岡田彰布二塁手も向かった方向は逆のマウンド。掛布雅之三塁手は中西が一塁に送球した直後にもうマウンドのすぐ後ろにいた。中西が木戸が、そして掛布が岡田が、誰かまわず抱き合って顔をくしゃくしゃに崩して笑っていた。

 神宮球場、午後9時59分。阪神が64年(昭39)以来、21年ぶり7度目(1リーグ時代も含む)の優勝をつかんだ。5万人の虎党の喜びが大爆発する中で始まった、吉田義男監督の胴上げ。5回宙に舞ったが、何せプロで優勝シーンを経験した選手は移籍組みの弘田澄男外野手ら数人だけ。全員不慣れなセレモニーに吉田監督の体が流れ、不恰好な形となったが、そんなことはお構いなし。掛布、“ヤジ将軍”川藤幸三外野手、史上最強の助っ人ランディ・バース一塁手、岡田、優勝決定試合でも好リリーフをみせた17年目の野村収投手が次々とその体を持ち上げられた。

 77年(昭52)、Bクラス4位に沈んだ上に選手との意思の疎通が不十分で吉田監督は3年で退陣した。それから8年。自ら計1000万円の自腹を切り、米大リーグからマイナーリーグまでを視察し勉強に明け暮れた。得た結論は「選手を信頼し、感謝する。失敗の責任は指揮官が取ること」だった。吉田が第1次政権で欠けていたものはまさにそれだった。

 サヨナラ負けをした投手を次の日も同じ打者と対戦させたのも、けん制死した代走を1点を争うゲームの切り札でまたピンチランナーに起用したのも「1度使うと決めたらとことん使わんと選手は答えを出してくれない」という吉田の信念に基づくものだった。

 胴上げから1時間後の祝勝会。あいさつに立った指揮官は言った。「この勝利はバッティング投手の人たち、用具係のみなさん、多くのスタッフのみなさんたちみんなが力を合わせたからこそできたのです。特に川藤くん、バットがなくても野球ができるということを教えてくれました。チームのムード作りという監督の私にもできない仕事をやってくれました」。

 それまで大はしゃぎし、ゲラゲラ笑っていたナニワの春団治が急に男泣きしたのも無理はなかった。「オレみたいなロートルは監督もベンチに置いとくだけや。干されてるわ」と言っていたベテラン存在価値を認めていたと同時に、裏方への思いやりをみせた吉田。“お家騒動”ばかりでオレがオレがのチームに今まで欠けていた輪が生まれた時、阪神は栄冠を勝ち取った。

 バースの54本塁打をはじめ、チームで年間219本塁打はセ・リーグ新記録(当時)。優勝を決めた試合も、9回の佐野仙好外野手の犠飛以外は、真弓明信右翼手、バース、掛布の3本塁打で挙げたものだった。打って打って打ちまくって、リーグ4位の防御率4・16で決して良いとはいえなかった投手陣を援護したといわれるが、意外と犠打数141もセ・リーグ新のレコードだったことは知られていない。佐野の中犠飛を呼んだのも、二塁打で出塁した岡田を北村照文中堅手がきっちりバントで三塁に送った結果だった。

 試合開始4時間前に1万2000人、約2キロにわたる球場開門を待つ行列、取材報道関係者770人、関西での試合中継平均視聴率57%超、優勝決定の瞬間は74・6%…。伝説の数字を残した優勝の余勢をかって2リーグ分裂後初の日本一にもなったが、あの熱にうなされたような歓喜から09年で24年。タイガースの2度目の日本一はまだ達成されていない。


【2009/10/16 スポニチ】
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