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【10月27日】2005年(平17) 


 楽天は27日、阪神から中谷仁捕手を金銭トレードで獲得したと発表した。背番号は未定。中谷は「阪神では納得いく結果が残せなかった。心機一転で頑張る」とコメントした。

 新聞各紙に載った、この短いベタ記事とともに中谷の仙台行きが決まった。阪神在籍8年間で17試合出場、22打数1安打。打率1割にも満たない成績は、コメントの通り「納得いく結果」ではなかった。失意とともに今度こそという希望を持っての移籍だった。

 楽天は結成元年で97敗を喫し、田尾安志監督を更迭。野村克也監督を招請し、バッテリー整備の一環として4人の捕手を解雇。代わって他球団の埋もれた才能を野村監督の“再生工場”で何とかものにしようという趣旨で、かつてのドラフト1位捕手を獲得した。

 高校球界のNO.1捕手、阪神にとっては田淵公一以来の大型捕手として97年ドラフト1位指名された。球団期待の星は後にタイガースのエースに君臨した井川慶投手(97年ドラフト2位)よりも評価が高かった。

 運命は一瞬にして変わってしまった。2年目の98年5月だった。選手仲間で食事に出かけた際、席を離れていた中谷の携帯電話に着信があった。「電話鳴ってるぞ」。ある同僚選手が約20メートル先の中谷めがけて携帯を投げた。が、中谷自身は呼ばれているのも気がつかず、携帯が左目を直撃した。

 目から出血した中谷は病院に担ぎ込まれた。診断は「左脈絡膜破裂と黄斑部出血」。2・0あった視力が一気に0・08まで落ち、何かを見つめた時に焦点が合わせられず、ものがかすんで見えたり、動いているものが急に視界から消えたりした。1つの白球に全神経を集中させて戦う野球にとって決定的なダメージだった。しかも脈絡膜は修復が困難で、手術することはできない。鳴り物入りで入団した、期待の正捕手候補は、わずか2年目にして引退の危機に追い込まれた。

 このつまずきは後々まで響いた。視力は回復したものの、中谷は伸び悩んだ。特にバッティングはファームでも打率2割前後の貧打。「打てないのは、やはり目が…」と言われるのが嫌で「僕自身が練習不足なんです」と真面目に努力を続けた。しかし、技術の向上はみられず、ついにトレードとなった。

 2度目の転機は、阪神監督時代に世話になった野村監督との再会だった。後がない中谷は監督の著書「野村ノート」をバイブルとし、ベンチにいる時もその言葉をすべて聞き逃すまいと、逐一ノートに記した。これを反すうしているうちにリードだけでなく、バッティングも相手の配球が少しずつ読めるようになっていった。

 そして迎えた09年6月21日、古巣阪神との交流戦。「中谷、お前まだいたんか?カベ(ブルペン捕手の意味)とちゃうんか?」。顔なじみのタイガース関係者らに冷やかされたが、代打出場した中谷は甲子園球場の左翼席に放り込むプロ初本塁打を放った。

 ここで結果が出なかったらファーム行き、今度こそ整理対象の選手になってもおかしくない状況だった。長かった12年目の初アーチは同時に1軍残留を野村監督に決断させた一撃でもあった。

 この日、2軍調整中の中村紀洋内野手の復帰準備が整った、とコーチから昇格の打診があった。がノムさんは「まだ使うときじゃない」と一蹴。「それよりアイツが良くなってきた」と苦労人・中谷を評価した。

 09年は自己最多の55試合に出場。過去11年で放った5本のヒットの4倍にあたる20安打を記録した。打率は2割ジャスト。09年の終盤戦話題となった“最低のヘボ打者”は、クライマックスシリーズも経験した。牛歩のようにゆっくりではあるが、野村監督が現場を去った後、“野村の教え”を忠実に継承するのはこの男かもしれない。


【2009/10/27 スポニチ】
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