【11月2日】1985年(昭60) 


 【阪神9-3西武】打った瞬間、確信した。右翼席への着弾を見届けると、一塁ベース手前で両腕を高々と飛び跳ねた。日本シリーズ第6戦の初回。試合開始わずか10分で飛び出した、阪神の6番長崎啓二左翼手の先制満塁本塁打。阪神が3勝2敗で王手をかけた一戦でのいきなりの4点は、2年ぶりの覇権奪回を目指す西武の戦意を一気に喪失させた。

 「ここで一発なんて打ったら出来過ぎやで」。三塁側ベンチから左打席に向かう背番号3は、まるで他人事のようにつぶやいた。2死走者なしから四球と連続安打で満塁の好機を作った阪神。甲子園での第5戦の最終打席で試合を決める2点本塁打を放ったことで、この日もスタメン出場となった長崎は不思議と気負いはなかった。

 快晴、なれど打者に向かって10メートルの強風が吹いていた西武ライオンズ球場。それでも西武・高橋直樹投手の真ん中高めのストレートを強振した長崎の打球は全く関係がなかった。逆風の中をグングン伸びる打球は、西武ファンが陣取る右翼席に突き刺さった。

 「打ったらヒーローとは漠然と考えていたけど、本当に入るなんて…。うーん、何と表現したらいいのか…。とにかくもう最高!」とベンチに戻っても興奮がなかなか冷めなかった長崎。自身プロ13年目で2本目のグランドスラムは、大洋時代の82年5月23日の中日7回戦(仙台)で鈴木孝政投手から放った、逆転サヨナラ満塁弾以来のことだった。

 試合はこの一発で決まってしまった。阪神はその後も小刻みに追加点を入れると、先発のゲイル投手が3点を失いながらも粘投。9回、伊東勤捕手を投ゴロに打ち取り、最後のアウトを取りゲームセット。阪神は2リーグ分裂後、35年の歳月を経て初の日本一に輝いた。

 長崎のシリーズ成績は9打数2安打だが、いずれも試合の流れを決めた2本の本塁打。打率2割2分2厘ながらシリーズ優秀選手賞を獲得した。「盆と正月が一緒に来たみたい。生涯忘れない思い出を刻めました。家族には苦労をかけたけど、阪神に来て本当に良かった」。祝勝会でビールを頭から浴びまくった35歳は宴の後にしみじみと運命が変わった1年を振り返った。

 73年、大洋にドラフト1位入団。82年に3割5分1厘で首位打者を獲得したが、首脳陣の評価は「打撃の職人タイプ。気持ちが乗らないとからきしダメ。試合にも出たくないというほど自分のペースで野球をやっている」。法大の先輩後輩にあたる関根潤三監督が84年に退団すると、2年前のリーディングヒッターは真っ先にトレード要員になった。

 左の代打を探していた阪神との間で池内豊投手とのトレードが成立した長崎は大阪へと向かった。実は68年のドラフトで大阪・北陽高のスラッガーは、阪神に8位指名されたものの、親のたっての願いで大学へ進学していた。それだけに「やっと17年遠回りしてめぐり会えた感じ。とにかく頑張る」と再起を誓った。期待通り左の代打の切り札として活躍。勝利打点は6を数え、6本塁打のうち5本は古巣大洋戦と放出されたうっぷんを晴らすように打ちまくった。

 日本シリーズのひと振りで完全燃焼してしまったのか、吉田阪神の凋落と運命を共にするかのように長崎のバットも湿り、87年に引退。実業家、区議会議員、シドニー五輪の日本代表コーチなど、ユニフォームを脱いだ後は多方面に活躍の場見出している。


【2009/11/2 スポニチ】
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