【11月27日】1979年(昭54) 


 一部のビッグネーム以外は、めぼしい選手がいないとされた70年代最後のドラフト。そのビッグネームの投打の双璧、早稲田大・岡田彰布内野手と日本鋼管・木田勇投手の運命はくっきりと明暗を分けた。

 阪神、阪急、南海、近鉄の在阪全4球団にヤクルト、西武を加えての計6球団が1位指名した岡田。子供の頃から熱狂的な虎党のスラッガーをくじで引き当てたのは、4番目に引いた阪神・河崎球団取締役だった。落胆の表情を浮べる5球団を尻目に「選択確定」が刻印された二つ折りの紙を右腕で高々と掲げた。

 なんという強運。相思相愛の強い思いが通じたのか、人生最良の日になった岡田は「ポジションは三塁でスタートしたいけれど、別にコンバートされても構わない。試合に出ることが先決ですから」と指名直後に早大野球部寮を訪れた田丸スカウトとともに臨んだ会見で、早くも入団したかのようなコメントを口にした。

 巨人、大洋、日本ハムから1位指名を受けた木田の本命は出身地横浜に本拠地を置く大洋。巨人は「岡田の倍率よりまだ当たりやすい」(長嶋茂雄監督)という作戦で指名。在京セ志望の木田に“指名お断り”の強烈なメッセージを投げつけられた日本ハムは「優勝するためには2ケタ勝てる左腕が必要。うちも本拠地は東京」(大沢啓二監督)という理由で強行指名を敢行した。

 巨人、日本ハム、大洋の順でくじ引きをした結果、三原脩球団社長が引いた日本ハムが交渉権を獲得した。2年続けて名乗りを挙げながら、連敗した大洋は「仕方ないよ。くじを引いたときはもうハズレしか残っていなかったんだから」(土井淳監督)と自らを慰めるしかなかった。

 前年も3球団競合の末、広島が交渉権を獲得したものの「年老いた両親を置いて広島に行くのは遠すぎる」と拒否。1年待って地元球団、一歩譲って東京にフランチャイズを持つ巨人かヤクルトの入団を夢見ていた。確率の低い方へ運命が決まったことに木田の表情は冴えなかったが「まあじっくり考えたい」とこれまでよりは軟化。一転して日本ハム入りへと傾いていった。

 というのも、木田は次の誕生日で26歳になる。プロ入りするには年齢的にギリギリという思いがあった。会社側も木田は来季の戦力の計算に入っていなかった。「今年こそプロに行く」という頭があったためで、左腕の補強も終わっていて、残りづらい雰囲気がそこにはあった。

 広島と違ってパ・リーグとはいえ、日本ハムは在京。入団の条件として家一軒を要求したなどとも報道され、やや難航はしたものの木田はファイターズの一員となった。

 期待に違わぬ活躍をした2人は、岡田が打率2割9分、18本塁打で新人王に。木田は22勝8敗4セーブという新人とは思えぬ大活躍で投手部門のタイトルを独占。新人王どころかMVPにまで選ばれた。

 不作だったドラフトを象徴するように岡田、木田を外した球団のハズレ1位選手に、岡田、木田以上に“当たり”だった選手は見当たらない。まさに1通の封筒の中の紙切れが球団の命運を左右したドラフトだった。


【2009/11/27 スポニチ】
arrow
arrow
    全站熱搜

    ht31sho 發表在 痞客邦 留言(0) 人氣()