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【12月2日】1944年(昭19) 


 その最期は誰も詳しく分からない。船名すらはっきりしない輸送船に乗り、12月の東シナ海で米軍潜水艦の魚雷を受けて撃沈、多くの兵士とともに戦没した元巨人のエース、沢村栄治投手は野球選手としてではなく、陸軍伍長として27歳の短い生涯を閉じた。

 時は太平洋戦争末期。米国の植民地だったフィリピンを開戦当初占領した日本軍だが、米軍はこの年の10月、本格的な奪回作戦を展開。“一大決戦”と位置づけた日本も次々と増援部隊を送った。

 しかし、相次ぐ敗北により既に制海権、制空権がなかった日本は、“フリーパス”状態で行動する米軍の潜水艦、航空機によってことごとく輸送船が餌食となった。いたずらに損害だけが増える中、沢村も例外ではなく戦場で戦わずして、台湾沖の波間に消えていった。

 米大リーグ選抜チームをキリキリ舞いさせ、巨人のエースとして3度のノーヒットノーランを演じた右腕は、わずか5年の“職業野球”生活で105試合登板し65完投、通算63勝(22敗)、防御率1・74の誇るべき数字を残した。そんな不世出の投手が戦時中とはいえ、7年間で3度目軍隊に召集されるというのは異例だった。

 プロ野球が始まって3年目の38年(昭13)。20歳の徴兵検査で最優良を意味する「甲種合格」と判定されると、故郷三重県久居町の陸軍歩兵33連隊に入隊した。日中戦争に出征し軽機関銃を射手として前線に赴いたが、左手中指に銃弾が当たり負傷。さらにマラリアにかかり、右肩はボールの3倍以上の重さの手りゅう弾を投げ過ぎてボロボロになってしまった。

 それでも命は助かり、40年春に除隊。巨人に戻り、復帰4試合目の7月6日、名古屋軍(現中日)相手に西宮球場で3度目のノーヒットノーランを達成した。ストレートは全盛期のスピードこそなかったが、「カーブの落差はものすごかった。それに沢村という名前で打者を牛耳れた」というのが当時出場していた千葉茂二塁手の回想である。

 復帰もつかの間、41年10月に2度目の“赤紙”が来た。再度33連隊に所属し、今度はフィリピン・ミンダナオ島へ。事実かどうかは確認するすべもないが、沢村はある時、敵の大軍を目の前にして2本の大木のわずかなすき間に手りゅう弾を投げ、見事米軍部隊を敗走させたと伝えられている。

 2度目も帰還したが、マラリアを患った身体でジャングルを駆けずり回り、敵と交戦した沢村の体力の消耗は著しく、加えて今度は本当に肩を壊してしまった。

 43年巨人に2度目の復帰を果たしたが、登板はわずか4試合。0勝3敗の成績だった。外野手だった青田昇が戦時中のメンバー不足のため捕手を務め、沢村と1度バッテリーを組んだが「素人のオレが捕れる程度の真っ直ぐだった」というほど、その球威はなくなっていた。

 そして3度目の召集で、生後5カ月の一人娘を残しとうとう帰らぬ人となった。実はこの時、沢村は巨人を解雇されていた。43年のシーズンが終わり、オフは軍用機製造工場で働いていた沢村だが、巨人は翌年の契約を打ち切った。阪急、名古屋軍からの誘いもあったが、プロ野球創設者の一人、鈴木惣太郎に相談。憤慨する沢村に「気持ちは分かるが、巨人の沢村として終わるべきではないか」と説得し、ユニホームを脱ぐことになった。

 「軍事関係の仕事をしていればもう召集されない」と言われていたが、沢村は44年10月に3度目の召集令状が届いた。しかも故郷の33連隊ではなく、京都に司令部があった第16師団。「若い兵士が次々に戦死して集められる人間が少なくなった。召集された部隊が京都ということを考えると、京都商業中退でプロ入りした沢村に白羽の矢がたったのかもしれない」と推測する関係者もいた。異例の3度目応召の理由がもしそうだとすれば…悲しすぎる話である。


【2009/12/2 スポニチ】
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