【12月7日】1994年(平6) 


 5年ぶりの日本一勝ち取った長嶋茂雄監督率いる巨人より、この年のプロ野球界の話題で巷(ちまた)を席巻したのは、オリックスのイチロー外野手だった。日本球界初のシーズン200安打を放ち、打率3割8分5厘でぶっちぎりの首位打者。独特の「振り子打法」は、子供たちが草野球でみんなモノマネし、イチローブームは野球に興味のなかった女性まで球場へ足を運ばせた。

 その振り子打法の“生みの親”、オリックスの河村健一郎2軍打撃コーチが突然、ブルーウェーブを退団した。「僕のわがまま。それを認めてくれた球団には感謝している」と河村コーチ。オリックスは95年から河村コーチを打撃コーチからヘッド格の野手総合コーチのポストを用意。しかし、現役時代から“代打屋”、指名打者としてバット1本で11年間、通算49本塁打(うち代打で15本)を放ってきた勝負師は、「打撃コーチとして道を極めたい」と主張を譲らなかった。

 売り出し中のイチローの打撃を改造しようとした1軍コーチ陣とも関係は良好とはいえず、シーズン中から退団は噂され、オフの移籍はあり得る話ではあった。

 ただ、闇雲に退団をしたわけではなかった。河村コーチ退団の可能性を見越して、シーズン中から、日本ハムなど複数の球団が水面下で河村コーチに直接来季の打撃コーチ就任を打診。再就職の見通しは立っていた。数ある選択肢の中で、新天地として選んだのは2軍打撃コーチとして迎え入れると申し出た巨人だった。

 巨人のファームディレクターに就任するアマ球界の重鎮、石山健一氏は河村のノンプロ日本石油時代の先輩後輩の仲。加えて、山倉和博バッテリーコーチの夫人は河村コーチ夫人の姉。巨人とは何かとつながりがあった。

 かといって、縁故だけで巨人が河村コーチを採用したわけではなかった。史上初の130試合目の同率決戦でリーグ制覇し、宿敵西武を倒して日本一になった巨人だが、長嶋監督は相変わらずの貧打線の打開を模索していた。防御率が12球団1位を誇る巨人だったが、チーム打率は同8位。中日からFAしてきた落合博満内野手と成長著しい松井秀喜外野手がいなければ、優勝はあり得なかったのが現実。「ファームから育成したい。巨人の打線を将来引っ張っていける打者を育ててくれ」。長嶋監督は会談した石山新ディレクターに注文を出した。石山氏の頭の中に真っ先に浮かんだ人物が河村コーチだった。

 「第2のイチローを育てる。巨人には埋もれた才能をもったいい選手がたくさんいる」。目を輝かしながらクリスマスイブの入団会見に臨んだ河村コーチ。「短所を直すより長所を伸ばせ」を基本理念に長嶋一茂内野手らをマンツーマンで指導。ファームの打線もにわかに活気づいた。

 97年には1軍打撃コーチに就任。しかし、打線が打てずに負けが込みだすと“戦犯”扱いされたのは、外様の河村コーチだった。他のジャイアンツ生え抜きコーチとも関係はうまくいかなかった。泥臭く時間をかけて選手を育ててきたチームで生きてきた河村コーチと何より素早い結果が求められる巨人の空気があまりにも違いすぎた。

 長嶋監督はシーズン中に緊急の人事を断行。河村コーチを2軍へ、内田順三2軍打撃コーチと入れ替えた。三顧の礼で迎えた敏腕コーチだったが、大きな実績を残せぬまま巨人を去った。

 イチローはその後も進化を遂げ、河村コーチと二人三脚で歩みだした頃の振り子打法ではなくなった。しかし、タイミングの取り方や左方向(逆方向)へ強い打球を打つという基本中の基本は河村コーチと一緒に汗を流した日々のものと変わっていない。


【2009/12/7 スポニチ】
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