【12月15日】2005年(平17) 


 悪い、とは聞いていたが、こんなに早く別れがくるとは思わなかった。9月までオリックスの監督として采配を振るっていた仰木彬前監督が、12月15日午後4時10分、呼吸不全のため入院先の福岡市内の病院で亡くなった。まだ70歳の若さだった。

 9月29日、前日に全日程を終了し「体調不良」を理由に監督を辞任すると、すぐに入院。後任の中村勝広監督の就任会見に姿を見せた以外は、面会謝絶状態が続いた。自分の運命を悟っていたかのように仰木前監督は主治医にある頼みごとをしていた。

 「先生、なんとか12月20日まで生かせてください。イチローと食事をすることになっているんですよ」。日本と米国、遠く離れていても事あるごとに連絡をくれる愛弟子イチロー。不世出のスーパースターにカタカナの名前を付け、表舞台に送り出した名プロデューサーは、計14年の監督生活の中での“最高傑作”との約束をどうしても果たしたかったのだ。

 イチローが恩師の急逝を知ったのは、所用のため滞在していたロサンゼルスでだった。「とても落ち込んでいて言葉が出ない様子。かなりのショックを受けている」と同行した関係者。その1カ月前、固辞する仰木のもとへ半ば強引に押しかけて見舞った。「元気だったので安心していたが…」と悔やむイチロー。会食の約束をして病院を後にしたのが、今生の別れとなってしまった。

 「僕にとって唯一の師といえる人。僕は監督に刺激を与えられる選手でいたい」。そう誓って毎年メジャーで戦い続けてきた。精神的な支えを失った悲しみは大きく、亡くなってから丸一日は何も手に付かなかった。

 オリックス監督に就任した1年目の94年オフ。肺がんが発覚し手術したのが病魔との闘いの始まりだった。9年後の03年に再発。それから1年後、近鉄とオリックスの合併で球界に激震が走った際、両球団の監督を務めた経験から難しいチームの舵取りをすることになった。「これも野球への恩返し。やりますよ」。心配する周囲の声をよそにオファーがあってからは二つ返事で引き受けた。

 抗がん剤の影響で満足に食事ものどを通らない時もあった。試合前に外野フェンス沿いに10往復する散歩は、1往復でやめてしまうこともしばしば。ベンチに座っていてもつらそうにして、夏には階段を上るのも休み休みになった。シーズン前から何かを察していたのだろうか、オリックス監督の就任が決まった直後の04年12月、野球殿堂入りのパーティーで関係者に「これは僕の生前葬だね」とつぶやいた。

 仰木監督の代名詞だった“マジック”。しかし、本人はこの言葉が大嫌いだった。表立っては反論しなかったが、語気を強めて「選手が地道に努力し続けた結果が出た。マジックではない」といつも同じ言葉で答えた。

 仰木自身、18年間近鉄でコーチをし続け、5人の監督に仕えながら監督の座に着いた。西鉄時代の同僚で中西太三塁手や稲尾和久投手のスター選手が即監督になったのとは別ルートで、長い時間をかけてトップに立った。

 その作戦も用兵も奇想天外の時もあれば、オーソドックスにじっくり攻める時もあった。「仰木さんは近鉄コーチとして最初についた三原脩監督や2度優勝した西本幸雄監督たちの野球を十分研究して戦っていた。マジックなんかじゃない」。仰木に近鉄時代に薫陶を受けた日本ハム・梨田昌孝監督は、仰木采配の真実をきちんと理解していた。


【2009/12/15 スポニチ】
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