【3月22日】1964年(昭39) 

 【阪神5-2広島】広島の大石清投手にプロ入り初本塁打を許し、さらに4回にも連打を食らった阪神先発の石川緑投手が3回3分の2でKOされると、藤本定義監督は2番手に3年目のジーン・バッキー投手を投入した。

 外野フェンスに沿って立つ金網状の「ラッキーゾーン」の中にあるブルペンから登場した青い目の助っ人に1万3000人の観衆がドッとわいた。なんと甲子園球場の整備をする阪神園芸の職員が運転するスクーターの後部に座ってマウンドへ向かったのだ。

 何も知らないファンは茶目っ気たっぷりのバッキーがファンサービスで笑わせようとやった“余興”と思っていたが、実はこの年からブルペンからリリーフ投手が登場するときは相手チームもこのスクーターに乗せられて、マウンドへ行くことに決まっていた。ファンサービスではなく、単純に試合時間短縮のため。ブルペンから約70メートルの距離を走ってくる投手はおらず、スピードアップ対策を考えていた球場側が、球場整備で機材などを運ぶために使っているスクーターを使うことになった。

 リリーフカーを使って交代した投手がマウンドに向かうことも、今では横浜スタジアムや千葉マリンなど少なくなってきたが、いわゆる「リリーフカー」(この場合リリーフバイク)のこれが起源とみられる。地方球場等記録が残っていないので確実ではないが、移動手段でこの類のものを使ったのは恐らく甲子園球場が初めてだった。

 スクーターに乗ってきたバッキーは、投球もノリノリ。石川をリリーフして5回3分の1を投げ、散発4安打無失点。気がつけばチームは逆転し、シーズン初登板で初勝利をマークした。

 この1勝でバッキーはノッた。気がつけばシーズン46試合に登板し29勝9敗。防御率1・89で見事、タイトルを獲得。チームのリーグ優勝に貢献した。さらにプロ野球の投手として最高の栄誉の沢村賞も受賞。外国人投手として後にも先にもこのバッキー以外同賞をもらった外国人投手はいない。

 ハワイのマイナーチーム、アイランダースに在籍していた62年のシーズン中。阪神と懇意の日系二世の紹介状を持って単身来日し、テストを受けた。結婚2日後に解雇通告を受けたため、やむなく選んだ日本行きだった。

 シュートのいい右腕だったが、球速も平均点で入団は微妙だった。ただ、手足が長くやや横手から投げるクセ球は出どころが見にくく、ナックルも投げられるということで「リリーフ程度なら使えるやろ」と藤本監督が採用を決定。契約金なしの月給9万円でサインするなら、と入団させた。家賃月1万3000円の畳部屋の貸家に住みながら、通訳なしでの異国の生活。サンドイッチ弁当持参で甲子園球場に通い、必死に日本語を覚えてチームに溶け込んだ。

 生活のために来日した右腕は、気がつけば8年で通算100勝(80敗)。ほぼ同時期に活躍した、南海のジョー・スタンカと同数の外国人最多勝利投手として、今でも記録は破られていない。

 69年に近鉄へ移籍も0勝7敗で引退。椎間板ヘルニアを悪化させたのがユニホームを脱ぐ直接の原因だったが、68年の巨人戦での乱闘劇で右手親指を骨折しなければ、まだまだ白星を積み重ねることが出来た惜しい投手だった。引退後は高校教師、牧場経営などで野球からは離れたが、阪神時代の思い出は尽きずたびたび来日しては旧交を温めている。


【2010/3/22 スポニチ】
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