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【9月9日】2002年(平14) 

 通算200勝まであと24勝だった。それでもユニホームを脱ぐ決意をした。「本当にここまでやることができて悔いはありません」。プロ19年生、阪神の星野伸之投手は甲子園球場内の球団事務所で行われた引退会見で、現役への未練を断ち切るかのようにきっぱり言いきった。

 ひじが痛いのか、肩を壊したのか、それとも体力の限界を痛感したのか…。星野はどう説明するかが注目されたが、出てきた言葉は意外なものだった。「昨年の夏ごろから頻脈に悩まされていた。投げるたびにつらかったが、ただ投げられませんと言うだけでは済まされないと思い、決意を固めた」。

 01年8月、神宮でのヤクルト戦のことだった。突然激しい動悸を訴え、救急車で病院に搬送された。それからというもの、時々同じような症状が起こり、薬で落ち着いたかと思えばまた再発するの繰り返しで01年はわずか1勝止まり。阪急時代の85年、入団2年目で1軍に上がった時にマークした2勝を下回る最低の数字に終わった。

 監督も星野仙一に代わり、再起を誓った02年だったが、星野が初勝利を挙げたのは5月26日の中日10回戦(ナゴヤドーム)。チーム44試合目と遅かった。3安打6三振に抑えていながら、7回に3番福留孝介中堅手の投手への強い当たりを処理しようとして左ふくらはぎを痛め、戦線離脱。頻脈が起きず絶好調だっただけに悔やまれる降板だったが、これが思わぬ重傷で復帰まで2カ月半を費やしてしまった。

 8月9日、けがをしたのと同じナゴヤドームでの中日戦に先発し、6回を投げ4安打1失点。持ち前の超スローカーブとフォークで2勝目を勝ち取ったが、事実上これが最後の勇姿だった。先発を言い渡されても投げきる自信がなく、ならばマウンドに上がる資格はないと、星野監督に引退を決意したことを伝えたのがこの会見の3日前だった。星野監督は「頻脈とは聞いていたが…。ひじや肩が悪いわけではないので、来季も戦力と考えていただけに残念」と申し出を了承した。

 北海道・旭川工高から83年のドラフト5位で阪急入り。ストレートの球速が130キロに届くかどうかという左腕に、当時の投手コーチは「誰が取ってきた!使えないじゃないか!」と怒鳴ったという。

 2年目には左のワンポイントからロングリリーフなどを1軍で経験し初勝利も挙げた。87年からは堂々エースとなり、チーム名がオリックスに変わってもそのポジションは変わらず11年連続2ケタ勝利。防御率1位のタイトルを89、96年に獲得し、オリックスの95、96年リーグ連覇にも貢献。阪神へFA移籍したのは2000年のことだった。

 体の関節が緩く、ルーズショルダーに悩まされたが、関節の柔らかさは星野の最大の武器であるひじの柔らかさを生んだ。直球と変化球では微妙にひじの使い方に違いが生じ、それが投球フォームに現れるものだが、星野はそれが全く分からなかった。加えて90キロ前後の超“遅球”カーブがよく決まり、その後に120キロ台のストレートが来ると「160キロくらいの真っ直ぐに感じる」という目の錯覚を利用して176の白星を重ねた。

 阪神で06年から09年まで2軍投手コーチ。2010年はオリックスの1軍投手コーチとなったが体調を崩し、休養後は2軍で指導している。


【2010/9/9 スポニチ】
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