【10月18日】1993年(平5) 

 タイガースへの愛着はあるが、大切なのは現役のプロ野球選手として試合に出場すること。阪神一筋14年のベテラン岡田彰布内野手が他球団移籍を決意した。

 すでに阪神からは戦力外通告をされていた。三好球団社長から間接的提示された道は3つ。1つはフロンと入りで、その場合はスカウトとして勉強してもらい、いずれは指導者の道を歩んでもらうというプラン。2つ目は解説者。ネット裏から他球団を含め、さまざまな野球を見て将来に備えるというもの。最後は野球界そのものから足を洗い別の道へ進むというものだった。

 「引退試合もする。功労金も用意する」と球団社長は、タイガースの岡田としてユニホームを脱ぐことを勧めた。それが岡田にとっても一番穏便な身の振り方だった。

 が、岡田は納得していなかった。代打中心でスタメン出場は数えるほど、92年は優勝争いをしていてもどこか他人事だった。「この2年間は野球をしている気がしない。完全燃焼してからでも(引退は)遅くない」。阪神に選手としての居場所がないならば、他球団へ移籍するしかない。その方法として考えられたのがこの年から導入されることになったフりーエージェント(FA)を宣言して、買い手を見つけるという方法だった。

 プロ野球の労組、プロ野球選手会の3代目会長としてFA制導入の中心的役割を担ったのが岡田だった。制度導入1年目に権利行使をするとみられる選手はいたが、岡田が制度を作った人物としてその第1号になるというのはFAを今後球界に浸透させるという視点でみれば、大いに意味のあることだった。

 ただ、岡田の立場は微妙だった。球団から引退を勧告された選手に補償金を含め、どこが大金を支払うのか。宣言をしたとしても見向きもされず、結局引退に追い込まれる可能性が高かった。現実的には厳しい路線で、宣言した場合は「補償金を放棄するよう(阪神に)お願いしたい」と岡田は話した。

 しかし、それは制度導入1年目から規則を変形させてしまうことになり、やっとの思いで勝ち取った選手の権利がスタートからゆがんだものになる可能性があった。阪神側も「FAに関してはすぐに対処しかねる」という態度をみせたことから、岡田はFA宣言を断念。19日の球団との話し合いで、無償トレードを基本線に移籍先を探すことになった。

 仰木彬新監督が就任したオリックスがいち早く岡田獲得に名乗りを上げたのは、この直後の10月25日のこと。「まだ35歳。代打ではなくレギュラーとして期待している」と新監督から最高の評価を受けた。

 プライベートな問題が重なり、一度は白紙になったオリックス行きが正式に決まったのは年が明けた1月29日。オリックスのキャンプがスタートする2日前だった。

 オリックスでの2年間は、通算1500安打を放つなどの節目の記録を残したが、85試合出場で35安打2本塁打と数字的には不本意に終わった。それでも移籍によって阪神以外にも人脈の広がった岡田は、オリックスで指導者としての基礎を築き、阪神監督を経て2010年、監督に就任。チーム再建に尽力している。


【2010/10/18 スポニチ】
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