【5月5日】1984年(昭59) 


 こどもの日に野球少年たちに夢を与える2つの大記録が相次いで誕生した。

 広島の不動の4番・山本浩二左翼手が巨人4回戦(後楽園)の4回、槙原寛巳投手から左前打を放ち、通算2000本安打を達成した。大学出の選手としては、巨人・長嶋茂雄三塁手に次いで2人目。ドラフト制度以降では初めてだった。

 「覚えやすい日に打ててよかったよ」と話したが、地元広島で達成できず、6打席足踏み状態が続いた。メモリアル安打もストレートに詰まりながら左前に落ちたシブいヒット。「あと1本にこんなにプレッシャーがかかるとは思ってもみなかった。もっとスカッとうちたかったけどね。でも、最初のヒット(69年4月13日、中日2回戦で田中勉投手から)もレフト。きょう守っているのもレフト。何か因縁があるね」。

 小学校3年の時、電車と渡し船を乗り継いで、当時カープの本拠地だった広島県営球場でプロ野球を初めて観戦した。本塁打王の小鶴誠外野手に憧れていた少年は「僕もカープに入ってプロ野球選手になる」と大きな夢を描いた。

 入団2年目に結婚。法大の同級生、阪神・田淵幸一捕手の活躍の陰に隠れて伸び悩んだ時期もあった。夫人が作った新聞紙を丸めたボールを自宅で夜じゅう打ち、気がつけば朝、なんてこともしょっちゅうだった。30歳を過ぎてから飛距離が伸び、中距離打者からイメージチェンジしたのも若い頃からバッティングを極めるために研究と練習を重ねた成果に他ならなかった。

 「次は500本塁打が目標。まだまだ野球がやりたい」。37歳の4番打者は新たな目標を口にした。

 後楽園から600キロ近く離れた、藤井寺球場では近鉄・鈴木啓示投手が日本ハム7回戦で通算300勝を完投で飾った。プロ野球6人目の快挙。ドラフト制後は初めての記録だった。

 惜しげもなく記念のウイニングボールをスタンドに投げ入れた。「200勝のボールも持っていない。300勝はこれで終わりというのではなく、ワシの野球人生の新たな出発。次の目標は320勝。(歴代)3位の小山(正明投手)さんの記録や。どうしても三本の指に入りたい」と"草魂"左腕は19年目でたどりついた大記録を通過点と位置づけた。

 3歳の時に三輪車から落ちて右腕を骨折。これをきっかけに巨人・川上哲治一塁手の大ファンだった父親が左投げに変えさせた。酒店を営む家族がプロ入りに難色を示す中で「4年間、大学に行ったと思って好きなようにさせてくれ」と説得して入った野球界だった。

 入団1年目の66年5月24日、東映(現日本ハム)8回戦で初勝利。同期の巨人・堀内恒夫投手よりは40日遅かった。「ワシがきょうあるのは南海の鶴岡一人監督のおかげ」と鈴木。ルーキーイヤーでオールスターに監督推薦で選んでくれたことを恩に感じていた。 「球宴に出たことで、一流の選手と話をさせてもらったり、実際に投げることができた。あの日から近鉄の鈴木から"球界の鈴木"になったと自分で思い込んだ。その強い自意識が自分をここまで支えてきた」。

 2人が次の目標とした数字はどうだったのか。山本は500本塁打を達成。通算536本塁打は歴代4位、大学出身選手としては1位となった。鈴木の勝利数は317で終わり、歴代3位には届かなかった。それでも小山が3球団を渡り歩いての記録だったのに対し、鈴木は近鉄一筋での記録。20年間の在籍で、鈴木の勝利数は近鉄のその期間の勝利数の実に約4分の1。まさに"球界の鈴木"と呼ぶにふさわしい投手だった。


【2010/5/5 スポニチ】
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