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【5月6日】1961年(昭36) 


 【南海4―3西鉄】ストレートが走らない。それになんだが腕がだるくて仕方がない。南海のエース、杉浦忠投手は2時間52分の試合中、ずっとそんなことを考えて投げ続け、完投勝利を収めた。

 これで通算100勝目。立教大学で巨人・長嶋茂雄三塁手と同級生のアンダーハンドは1958年(昭33)にプロ入りし、以来3年間で27、38、31勝と白星を積み重ね、シーズン4勝目を足して計100勝。実質3年という脅威のスピードで球界31人目(当時)の大台到達を果たした。

 が、試合終了後、笑顔はなかった。いつも眼鏡の奥に憂いを漂わせ、快活に話し笑うようなタイプではなかったが、100勝を達成してもその表情は厳しかった。

 「真っ直ぐが全然ダメ。カーブとシュートでかわす投球。完投?マウンドに上がった以上当たり前のこと。きょうはこんなボールでよく勝てたと思う。100勝目ということは知っていたので、もっといい投球をしたかった」。

 7安打3失点。終盤毎回のように走者を許し、たしかに薄氷を踏む投球だった。内角低めいっぱいに正確にコントロールされる速球もなりをひそめ、カーブでカウントを稼ぎ、シュートで詰まらせて打ち取るという技巧派のような投球だった。

 西鉄の打者もそれは感じていた。「スギの真っ直ぐ来とらん」。中西太三塁手も豊田泰光遊撃手も口々にベンチでそう話していた。キャンプ中から、疲れが抜けにくく、特に腕のだるさはしばらく続いた。入団からの3年間、シーズンの半分近くの試合は投げていた。「その疲れが残っているのかな」とそれほど気にはしていなかったが、マッサージを受けても、温泉につかり睡眠をとっても右腕の違和感は消えず、不安を抱えたままのシーズンインとなった。

 61年のシーズン、優勝争いを演じていた南海は先発にリリーフに、杉浦が獅子奮迅の活躍をした。しかし、右腕の状態は芳しくなく、夏場になると冷たくなり、痺れを感じるようになった。風呂で温めてもそこだけ血が通っていないかのごとく、白く血色が悪かった。

 9月2日、阪急23回戦で4年連続20勝を飾った杉浦だが「投手なら当然」としていた完投勝利ではなく、リリーフを仰いでの勝利投手だった。鶴岡一人監督に「腕に感覚がない。ボールをうまく握れなません」と言って初めて自分からマウンドを降りた。

 病院で診断を受けた結果、動脈閉塞と診断され、毛細血管が切れているとまで言われた。右腕に流れるはずの血液の循環が極端に悪くなったことで、腕がだるくなったり痺れたりしていた。

 杉浦は9月中に右腕へメスを入れた。投手の生命線である肩や肘でなかったことは救いだが、手術は成功したものの、腕の違和感は少なからず残った。思うような投球ができぬまま、翌年もマウンドに上がったが、それまで2ケタあった完投数はひとケタになり、最後はリリーフ投手となった。

 3年と少しで100勝した右腕は、残りの8年弱で87勝止まり。連投に次ぐ連投による酷使が原因なのか、それとも杉浦の運命だったのか…。はっきり判断できないが、時代は違うとはいえ、3年と少しで100勝という投手が出てくることは、もう平成の世ではあり得ない。


【2010/5/6 スポニチ】
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