【5月21日】1959年(昭34) 

 【阪神3―2巨人】通算222勝をマークした、阪神の往年の大エース、村山実投手は509試合登板したが、完全試合はおろか無安打無得点試合も記録せずに14年の現役生活を終えた。

 その村山がノーヒットノーランに一番近づいた日があった。ルーキーイヤーの巨人8回戦(甲子園)。プロ11試合目のマウンドだった。

 先発した村山は初回から絶好調。3者連続三振という好スタートを切ると、3回までの打者9人から計7奪三振を記録。4月14日の国鉄(現ヤクルト)戦で、金田正一投手と真っ向投げ合い、2安打完封勝利を挙げて以降、好投すれども勝ちに恵まれず3連敗したこともあった村山。そのうっぷんを晴らすかのように、ストレートがうなりを上げて山本哲也捕手のミットに収まった。

 「きょうのムラはええで」。山本がベンチで快活に笑った。ストレートだけではない。「スライダーも落ちる球も低めにコントロールできている」。村山は自分でもそう実感していた。

 4回も3者凡退で迎えた5回、先頭の4番長嶋茂雄三塁手には気負いすぎて四球で歩かせ、完全試合はなくなった。だから、というわけでもないだろうが、阪神のディフェンスがここから乱れた。

 5番坂崎一彦左翼手の一ゴロで長嶋が二塁へ進むと、6番広岡達朗遊撃手の当たりは三ゴロ。名手三宅秀史三塁手が難なくさばいたが、信じられないことに一塁悪送球。長嶋が一気に生還し、1―2と1点差に迫った。広岡も二塁まで進んだ。

 無安打で1点を奪われたと思うと、村山の頭に血が上った。続く7番宮本敏雄右翼手は当たり損ねの投ゴロ。ボテボテの当たりにマウンドを駆け下りた村山は一塁へ送球したが、藤本勝巳一塁手が捕球するには低くすぎて無理があった。球が転々としている間に、広岡も生還。巨人は無安打で同点に追いついた。

 ベンチに戻りふてくされた村山。だが、大投手といわれる人は共通して切り替えが早い。気を取り直して6回からは再び快投を演じた。すると6回、巨人に得点を許すエラーをした三宅が左翼へ5号勝ち越し本塁打。村山の力投に応えた。

 巨人は終盤になっても1本のヒットも出ない。「ヒットを打たれていないことは知っていた。7回にちょっとへばったが、8回に四球を出してから、また頑張らなくてはとエンジンがかかった」と村山。結局9回2失点14奪三振で完投の3勝目。巨人は無安打に抑えられたまま、阪神3連戦3タテを食らった。

 ノーヒット“ツーラン”試合。村山は球史でも珍しい記録を残した。ノーヒットノーランを逃したことが象徴するように、村山は18勝10敗、防御率1・19で沢村賞と防御率1位のタイトルを獲りながら、一生に1度の機会しかない、新人王は31本塁打を放ち、中日・森徹外野手とともに本塁打王となった大洋・桑田武三塁手に持っていかれた。村山に最後まで“悲運の大投手”というキャッチフレーズがついたのも、この大記録を逃したのが始まりだったといっても過言ではない。



【2010/5/21 スポニチ】
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