【5月10日】1970年(昭45) 

 【広島2―1阪神】背番号11が甲子園のマウンドに登ると、阪神ファンは大きな拍手と歓声で迎えた。

 この年、弱冠33歳にして阪神の投手兼監督となった村山実が開幕20試合目にして初登板。広島とのダブルヘッダーの第1試合に1―5で敗れた3位阪神は、4位広島に0・5差。まだ順位を気にする時期ではなかったが、やはりAクラスにはとどまっておきたいところ。チームの士気を高めるためにも、監督自ら鼓舞する必要があった。「用意はしてきた。何とかせんと」。口調は穏やかだが、ハートは燃えたぎっていた。

 初回と2回、安打を許すもいずれも併殺で切り抜ける落ち着いた投球をみせ、決め球のフォークで3番山本浩司中堅手も空振り三振に仕留めるなど、上々の立ち上がりを見せた。

 5回だった。5番衣笠祥雄一塁手のの5球目、カーブが甘く肩口から入った。いわゆる“ハンガーカーブ”という、一番痛打を食らいやすい球。バットが一閃すると、打った瞬間それと分かる左翼中段への6号先制ソロ。村山は試合後、カーブが思うように曲がらなかったとした上で言った。「あの1球が悔やまれてならん。見送ればボールだろうが甘くなった。ワシとしたことが…」。

 阪神はその裏、6番遠井吾郎一塁手の右翼フェンス直撃の二塁打と犠打野選で1死一、三塁に。打順は村山に回った。投手は先発完投してこそを身上に投げ続けてきた男だが、今の立場は監督でもある。必勝を期したゲームだからこそ、自らの右腕を信じて登板したが、今は好機をものにして、後はベンチのピッチングスタッフに託すのが、指揮官としての妥当な判断。藤井勇ヘッドコーチと相談して、滴り落ちる汗をぬぐった後、大谷泰司球審に代打葛城隆雄内野手を起用した。期待に応えて葛城は左犠飛。同点とした。

 しかし、阪神の気迫以上に、広島の先発白石静生投手の投球が冴え、タイガースは6回以降無安打。7回に1点を奪われ、ダブルヘッダー連敗。4位に転落した。「2番手に誰を投げさせるか…継投は難しいで。自分で投げ切る方が楽や。でもあそこは攻撃せんと。代打は当たり前や。きょうはもう勘弁してや」と村山監督は、連敗に意気消沈した。

 開幕から「ワシもローテーションに入っとるで」と公言しながらなかなか投げなかった。前年12勝で9年連続2ケタ勝利。まだ、戦力として十分やれるはずが、敢えて投げようとはしなかった。番記者がいつ投げるのか?尋ねると「もうすぐや」と言うばかり。阪神ファンもしびれを切らし、手紙や電話で「早く投げてくれ」と連日のように“催促”が球団事務所にあった。

 村山の気持ちを代弁して渡辺省三投手コーチが説明した。「監督が投げてやられたら、ショック2倍。考え込むタイプやから、指揮にも影響する。機会を待っていたんだ」。

 巨人とのし烈な優勝争いが進む中、村山は初登板以降、投げざるを得なくなった。7月には完封で通算200勝を達成。25試合に登板し、14勝3敗と江夏豊投手の21勝に次ぐ白星をマーク。8割2分4厘で最高勝率、防御率はなんと0・98でタイトルホルダーに。巨人と2ゲーム差で優勝こそ逃したが、監督自ら獅子奮迅の活躍は、阪神ファンの胸を熱くした。

【2011/5/10 スポニチ】
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