【5月4日】1936年(昭11) 

 【セネタース5―3タイガース】プロ野球、当時は職業野球と呼ばれていたが、その公式戦第1戦が行われたのが36年4月29日。米国遠征中の巨人を除いた7球団が甲子園球場に集まり、「第1回日本職業野球連盟リーグ戦」とち銘打って、各球団1回戦総当りの試合が5月5日まで組まれた。

 記念すべきプロ野球公式戦第1号本塁打が飛び出したのは、大会6日目。大阪タイガースの2番藤井勇外野手が放った。

 5回、セネタースの野口明投手から、左の中距離打者らしく右中間をライナーで破った。打球が転々とする間に生還。ランニングホームランが記録された。藤井はこの大会で打率5割2分6厘をマークし首位打者に。1本塁打ながら、大会期間中の15試合でこの1本しか出なかったため、“本塁打王”となり、表彰された。

 「野口さんから打った、ということ以外詳しいことは覚えていない。それより首位打者になってトロフィーをもらったことの方がうれしかった」と後に藤井は回想している。

 鳥取一中(現鳥取西高)から阪神の契約第5号選手として入団。34年(昭9)、夏の甲子園の第20回大会1回戦で京都商のエース、沢村栄治投手から初回に2点適時二塁打を放ったことで注目され、タイガースがスカウトした。

 その頃の巨人と阪神のライバル意識はものすごく、口もきかないほどだったというが、藤井と沢村は甲子園での因縁もあり、仲が良かった。東京、大阪の遠征の際は互いの家を行き来し、「沢村は女性にモテてね。芸者さんや女優の田中絹代さんなんかもよく球場に応援しに来ていた」と述懐している。

 藤井はタイガースのほか戦後は大洋でも活躍。55年(昭30)はプレーイングマネジャーまで務めたが、17年の現役生活での通算本塁打は146本。戦前はプロ野球1号を打ちながらわずか4本止まりだった。大洋時代の50年(昭25)の34本塁打がシーズン最多だったが、その後阪神打撃コーチとして通算474本塁打の田淵幸一捕手を大きく育てた功績は大きい。

 田淵の入団2年目、70年に村山実監督の要請で打撃兼ヘッドコーチとして阪神にカムバックした藤井は田淵とともに合宿所に住み込み、マンツーマンで指導。「ブチ、体重はちゃんと親指にかかっとるか」が口ぐせで、本塁打20本前後だった田淵は72年に初めて34本を記録。翌年も37本塁打と、藤井がコーチでいた間に巨人・王貞治一塁手とタイトル争いをできるまでに成長した。

 86年に69歳で死去。性格は温厚で素朴な人柄が愛されたが、チャンスにはしぶといバッティングをみせた。特に巨人戦に強く、まさに勝負師であった。

【2011/5/4 スポニチ】
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