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【8月3日】1973年(昭48) 

 【南海3―2太平洋】悠々と二塁ベース上に到達すると、背番号19は観衆の大きな拍手に応え、両手を上げた。18年、2312試合かかった記録。「ようやくというか、あと1本まで長かった。まあ、いずれ長嶋か王に抜かれるでしょう」。いつも通り、素直な言葉が出てこないが、本心は憧れの“神様”を超えたことで感慨無量だった。

 南海(現、ソフトバンク)の野村克也捕手兼任監督は、大阪球場での太平洋(現、西武)後期1回戦の2回、三輪悟投手から左中間に二塁打を放ち、通算2352安打に。巨人・川上哲治一塁手が58年(昭33)から15年保持していた、プロ野球通算安打記録を塗り替え、頂点に立った。王手をかけてから4試合、11打席ぶりのヒットだった。

 「打ったのはカーブや。今はカーブの方が打てる。ストレートは速過ぎて、目がついて行けんわ」と苦笑する38歳の野村。カーブには思い出がありすぎた。「若い頃、カーブが全然打てんで、夢の中までカーブが出てきた。相手ベンチからは“コラッ、野村!カーブのお化けが出るぞ”と野次られたし…。打撃コーチなんておらんし、誰も打ち方を教えてくれん。鶴岡(一人)監督のアドバイスだって“球をよく見て、スコーンと打つんじゃ”止まりだもん。だから自分で研究した。山さん(大毎・山内一弘外野手)のバッティングを打撃練習の時からじっと観察したり、アメリカの技術書も読んだ。逃げずに打ちに行っているうちに、コツらしきものをつかんだ。速い球打つよりやさしいで」。

 川上にも特別な思いがあった。「ワシが子供の頃からの大スターや。あれは初めてオールスターに出た年(57年)のことや。オレが試合に出ていると、川上さんが打席に入った。その姿だけでオレは野球どころじゃなくなってしまった。あの川上さんが目の前にいる、というだけで胸がいっぱいになって…。そんな雲の上の人を抜いたのか…。でも、川上さんの時代は試合数も少なかったし、ボールは飛ばないし、バットだって今より材質は悪い。川上さんの記録の方がスゴいんや。オレの数字なんか長くやっていれば届く」と、あくまでも“月見草”野村は“神様”川上を超えていないと、大先輩を立てた。

 野村の初安打は入団3年目の56年4月9日、近鉄3回戦(藤井寺)の8回、代打で辻中貞年投手から放った中前打。打席数にして31打席目のことだった。2年目に1軍出場なしで整理対象選手リストに名前のあった男が、10年もしない間に三冠王を獲る打者に成長するとは当時誰も思うはずもなかった。

 野村の通算安打数は2901本で歴代2位(日米通算で3000本を超えたイチロー外野手を除く)。野村は川上を抜いた時「あのオッサンまだ野球辞めてないんか、と言われるまで野球をやりたい」と、記録以上に現役にこだわったが、安打記録は抜かれても、3017の出場試合数と1万1970回打席に入った数は、いまだにプロ野球記録。現役を27年、45歳の「オッサン」まで野球を続けたことの証だ。

 113本の犠飛、378本の併殺打も日本球界歴代トップ。バットマン野村の数字は実に興味深い。

【2011/8/3 スポニチ】
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