【6月17日】1976年(昭51) 

 【日本ハム7―0阪急】「今度やったら俺が行く」。その言葉通り、2度目は真っ先に走って行った。日本ハム―阪急前期12回戦(後楽園)の5回、日本ハムの7番上垣内誠三塁手に阪急・竹村一義投手が投げた初球は、顔面付近に。避けた上垣内は左手に死球を受けた。

 その瞬間、一塁コーチスボックスにいた日本ハム・大沢啓二監督は一目散にマウンドへ。竹村の襟首をつかまえると1発、2発パンチを食らわせた。さらに一塁側ベンチから飛び出してきた、ファイターズの外国人選手、ウォルター・ウィリアムス外野手も参戦。竹村を殴打しようとすると、阪急ベンチから仲裁に来た中田昌宏打撃コーチと衝突。ウィリアムスが中田コーチの顔面を殴ると、口から鮮血が滴り落ちた。

 両軍入り乱れての小競り合いが2分程度続いた。事態を収拾すべく、審判団は先に暴力を振るった大沢監督とウィリアムスに退場を宣告。すると日本ハム側は「原因はビンボールを投げた竹村にある。アイツも退場させなければおかしい」と猛抗議。当時は危険球退場の規定がなく、たとえ頭にデッドボールを投げたとしても、投手が退場を食らうことはほとんどなかった。

 しかも竹村は大沢監督に殴られた上に、尻もちをついた時に足をひねっていた。いわば被害者であり、審判団はこの抗議を受け付けなかった。納得しない日本ハムは15分間粘ったが、試合は再開。日本ハムは鈴木打撃コーチが監督代行として試合を続けた。

 伏線は4回にあった。先発の大石弥太郎投手のリリーフに立った竹村は、ウィリアムスの後頭部にぶつけてしまていた。詰め寄ったウィリアムスを大沢監督は必死に制止。「滑っただけかもしれない。堪忍してくれや」と体を張って暴力行為を止めて事なきを得た。が、竹村に釘を刺すことを忘れなかった。「次やったら分かっているな」。そうした背景が5回に事件は起きたのだった。

 大沢監督の行為を重くみた、岡野パ・リーグ会長は大沢監督とウィリアムスに出場停止1週間と罰金5万円を科した。監督の出場停止は長くて3日程度が相場だが、7日は2リーグ分裂後に西鉄・三原脩監督が54年(昭29)に命じられて以来、リーグ最長タイ記録。「暴力をふるったことは大いに反省している。処分も甘んじて受ける」と大沢監督は反論しなかったが、しかし危険球には退場をという主張は曲げず「選手生命にかかわる問題。厳しい態度で臨まなければ」と訴えた。

 それから1年半。竹村は大沢に頭を下げることになった。乱闘騒ぎがあった76年、竹村は1勝もできず阪神へトレードされ、タイガースでも1年で戦力外通告を受けた。働き場所を探して最後に頼ったのが大沢監督の日本ハム。テスト生としてキャンプに参加させてほしいと願い出た。

 73年からの3年間で計28勝した右腕が、あの事件以降1つも勝っていないことに大沢監督は結構気にしていた。過去のことはすっぱり忘れ、チャンスを与え、徳島・鳴門キャンプ参加を許可した。

 竹村は20日間懸命にアピールしたが、「個人の情としては採用してやりたいが、ウチとしては戦力として計算できない」と大沢監督。ようやく気持ちの整理がつき、竹村はユニホームを脱ぐ決意をした。

 神奈川でスポーツ店を経営するなどしていた竹村がシニアで中学生に硬式野球チームの指導者を経験した後、東京工芸大野球部の監督に就任したのは、09年。あの大沢監督との事件から33年の歳月が流れていた。

【2011/6/17 スポニチ】
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