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【11月23日】1973年(昭48) 

 時間にしてわずか1分足らず。我慢していたものを最後の最後で爆発させてしまった。ファンとの交流野球試合が行われた甲子園球場の監督室。いすに座ってタバコをふかしていた阪神・金田正泰監督の前に仁王立ちした、この年限りで21年の現役生活にピリオドを打つ権藤正利投手が口を開いた。

 「5月にオレがタバコを吸っていたら“サルでもタバコ吸うんかいな”と言っただろ?サル呼ばわりされるのはどうにも収まらない。謝ってくれ」。金田監督が怪訝そうな顔で応答した。「そんなこと言った記憶はないなあ。言ったとしたらどうなんだ?」。

 この言葉に監督が開き直ったと感じた権藤。気がつけば、グーパンチが金田の顔面に命中していた。いすから転げ落ち、メガネが壊れて流血した金田監督。「誰か、誰かおらんのか!アサ、アサはおらんのか!」と元選手の浅越桂一マネジャーに助けを求めた。

 この時の様子を当時、阪神のエースだった江夏豊投手は「左腕の誇り 江夏豊自叙伝」(草思社)の中でこう綴っている。「浅越マネジャーたちが僕をどけようとしたけれど、僕は絶対動くまいと、がんばった。(略)“権藤さん、納得した?”“うん”“じゃ、帰ろ”」。この時、用心棒代わりに権藤に付き添ってきた江夏は、監督室にいたコーチらを出て行くように促し、場を“セッティング”。監督室外のドアの前に立って用心棒代わりをしていたという。村山実前監督辞任の際、金田監督に乗せられ辞任に追い込んだことを悔やんでいた江夏。金田監督とは、シーズン中常に対立していた。

 金田監督の“サル発言”があったにせよ、権藤が殴ったのはやはり大問題であった。一時の感情でカッとなったことに、権藤は冷静さを取り戻すと「わたしが悪い。手を出すなんて、年甲斐もないことをしてしまった。どうしてあんなことをしたのだろう。21年プロ選手生活の最後をこんなことで汚してしまって悔いが残るが、どんな処分でも受ける」と謝罪。球団は謹慎処分を下した。権藤はこの時点で現役最古参投手。通算117勝をマークし、セ・リーグでは連盟表彰も検討していたが、この事件で話は立ち消えとなり、家業の酒屋を継ぐため寂しく郷里の佐賀へと帰っていった。

 金田監督が襲撃されたのはこれが初めてではなかった。6月にはベテランの鈴木皖武(きよたけ)投手も起用法に不満を抱き、酔った勢いも手伝って遠征先の名古屋の宿舎で金田監督を殴打した事件があった。

 この年、阪神はV9を目指す巨人を退け、9年ぶりの優勝が9分9厘決まっていたが、あと1勝でVという10月20日の中日戦に敗れ、最後の甲子園での巨人戦に0-9と完敗し、ジャイアンツの9連覇を許した。ファンが暴徒化し、試合終了後にグラウンドへ乱入。巨人の選手が暴行を受けたが、金田監督もファンに囲まれ、罵声を浴びた。実力的にもこの年の巨人を上回り、優勝目前のタイガースが最後に勝てなかったのは、金田監督の采配もあるが、皮肉を込めたものの言い方に選手がついていかなくなり、最後の勝負どころの5試合で1勝3敗1引き分けとチーム一丸となれなかったのが大きな要因だった。権藤が退団の際に言った言葉がそれを象徴していた。「タイガースにはもっと対話が必要だ」。

 戦後再開した最初のペナントレースで首位打者となり、往年の阪神“ダイナマイト打線”の中核を担った金田監督だが、指揮官としてはやや考え方が偏る傾向にあったことは否めない。翌74年4位に終わると解任。晩年はステーキハウスの経営に乗り出したが、92年12月に72歳で亡くなった。


【2008/11/23 スポニチ】
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