【6月2日】1979年(昭54) 

 【阪神5-4巨人】カーブを振らされ2三振、チェンジアップにタイミングをずらされ中飛…。わずか7時間だけ阪神の選手だった“元チームメイト”の巨人・江川卓投手に阪神の3番打者、マイク・ラインバック左翼手は手玉に取られていた。

 「ビッグ・ルーキーは最初が肝心。プロの厳しさを教えるためにも叩かなければならないな」。同僚のスタントン中堅手と車の中で交わした会話が頭をよぎった。スタントンは4回に江川のプロ初被弾となる5号ソロを右翼へ放っていた。

 7回、二死一、二塁でラインバックの第4打席が回ってきた。得点は2-3で1点を追う展開だった。今まで打ち取ってきたカーブを主体に攻めてきた江川。カウントは2-2となった。「ウイニングショットはストレート」。ラインバックはそう読んだ。江川のストレートは150キロ近い、と聞いていたが、この日はせいぜい140キロ前半止まり。それに7回までくれば、球威は落ちる。足で打席の土をならしながら、頭の中を整理した。

 その読みどおりだった。インコースの真っ直ぐ。ラインバックのバットは一閃した。5万の大観衆の歓声と悲鳴が交錯する中で白球は右翼スタンドへ美しい放物線を描いたまま吸い込まれた。

 逆転3ラン本塁打。スタントン、若菜嘉晴捕手に続くこの日江川から3本目のアーチは、試合をひっくり返す値千金弾となった。マウンドにヒザをつき、うなだれる江川。このシーン見たさに集まった虎党は大はしゃぎ。あまりの喧騒に次打者の竹之内雅史右翼手がなかなか打席に入ることができないほど、球場内は興奮していた。

 あれから4カ月。江川がドラフトという球界のルールを踏みにじり、阪神をソデにして強引に巨人入りし屈辱を阪神ファンは生々しく覚えていた。阪神ファンの溜飲を下げる来日4年目の助っ人の一撃に、三塁側から左翼スタンドの観客はいつまでも酔いしれた。

 人気、実力とも掛布雅之三塁手に負けない選手だったラインバック。しかし、来日当時はタイガース史上最低の外国人選手のレッテルが貼られた。

 バットではなく、趣味のギターを担いで飛行機を降り立ったのは76年2月。すぐに高知・安芸のキャンプに参加したが、あまりのひどさに吉田義男監督はあ然とした。控えとはいえ大リーグ、オリオールズに在籍していたとは到底思えず、当時のスカウトにつかみかかったという。

 打たせれば内野のポップフライばかりで外野に飛ばず、守らせれば弱肩。いつも下を向いて、くぼんだ目の印象から暗いイメージが首脳陣の間で定着した。遅れて来日してきたバリバリの大リーガー、ハル・ブリーデン一塁手に若いラインバックはスパイクを磨くことをよく命じられた。それを黙々とこなす、寂しい後姿を多くの選手、コーチが目撃していた。しかし、すぐにいなくなると感じていたからだろうか、誰も声をかけなかった。

 そんなラインバックの面倒を見たのが、“打撃の職人”山内一弘打撃コーチだった。教えだしたら止まらない“かっぱえびせん”山内は、マンツーマンで徹底指導。上体が突っ込むクセのあったラインバックに呼び込んで打つことを叩き込み、その打撃センスを開眼させた。

 開幕戦でベンチウォーマーだったダメ外人は、5月には3番に定着。来日1年目に打率3割、22本塁打の成績を残した。ひたむきに努力した外国人に、阪神ファンは共感し、猛然とヘッドスライディングするハッスルプレーに人気が集まった。

 来日当時は考えられなかった球宴にも2度出場。5年間の通算は2割9分6厘、96本塁打。退団後は、阪神ファンの京呉服店の社長に気に入られ、同店のロサンゼルス総支配人に。その後は靴のセールスマンになった。「日本で野球の仕事をしたい」と常々友人らには話していたが、89年5月、思いを果たせぬまま、交通事故で不慮の死を遂げた。享年50歳。古くからのタイガースファンの中には、その勇姿を懐かしそうに話す人が今も少なくない。


【2008/6/2 スポニチ】
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