【7月3日】1971年(昭46)

【ロッテ4-1東映】プロ19年生、36歳のオヤジ投手の159球目は、決め球のパームボールだった。東映の代打、鈴木悳夫捕手の当たり損ねの打球をロッテ・江藤慎一一塁手は、腰を落として大事そうに捕球。自らベースに駆け込むと、無表情で淡々と投げてきたオヤジ投手から初めて白い歯をこぼれた。

 今季区切りの10勝目、通算ではもっと大きな区切りとなる300勝目を完投で飾った、小山正明投手の周りにロッテナインが集まり、歓喜の輪を作った。輪はやがて小山の1メートル83、73キロの身体を担ぎ上げ、2度、3度、4度と胴上げし、まるで優勝投手のようだった。

 「金田さん、スタルヒンに別所さんの3人しか届いていない記録だぜ。みんなでお祝いしなくちゃ」。ウイニングボールを処理した江藤は大はしゃぎ。「みんなのおかげや。おおきに」。阪神から東京に本拠地を構えるオリオンズに移って8年。それでも生まれ育った関西弁が抜けきらない、背番号47は一人一人と握手を交わした。

 粘りの投球で9回一死満塁もしのいだ小山だが、300勝は自らのバットでもぎ取った。1-1の同点で迎えた8回、一死二塁で打席には小山。4年目の右下手投げ、高橋直樹投手のストレートをバットを短く持って対応した打球は、前進守備の白仁天中堅手の頭上を越える二塁打に。勝ち越し点を挙げた。300勝もすごいが、小山の通算安打数は244本。二塁打30、本塁打9を記録しており、投手としては高打率の1割5分7厘をマークしていた。

 300勝投手の第一歩は入団テストだった。52年、兵庫・高砂高の投手だった小山青年は「野球で食べていきたい」と、進学を勧める父親を説得。父親のつてを頼って阪神のテストを受けた。

 「なかなか速い球を放るじゃないか」と首脳陣にも認められたが、合格通知は待てど暮らせど届かなかった。しびれをきらせた小山は、自宅近くの兵庫県明石市でキャンプを張っていた洋松ロビンス(現、横浜)のテストも受験。しかし、当時の洋松は大洋と松竹が合併したチームで選手が余るほどいた。実力を認められながらも、採用枠はなく不合格となった。

 失意の小山に阪神から遅れた合格通知が届いたのはその数日後。契約金なし、月給は5000円の条件だったが、当時の松木謙次郎監督は「ヒョロヒョロでモヤシみたいに細かった。コントロールは良いので、打撃投手くらいなら使えるだろう」としか見ていなかったようだ。

 予想に反した1年目から5勝を上げ、翌年からはローテーション投手となった。小山がさらに殻を破ったのが、58年。直球とカーブしかなかった球種に、パームボールが加わった。新しい変化球のマスターを模索していた小山は、米国の野球雑誌に出ていたイラスト入りの握り方を真似て、ブルペンで試投すると、ボールが回転せずに捕手のミットに収まった。

 このパームが効いた。直球、カーブとも精密機械のようにコーナーに決めるコントロールがあり、落ちるボールの役目を果たしたパームを投げると面白いように打ち取れた。

 現役時代、1度も肩、ひじを痛めたことのない小山は、856試合に登板し現役21年間マウンドに立ち続けた。通算320勝(232敗)は歴代3位。通算73試合無四球試合は、通算317勝の近鉄・鈴木啓示投手に破られるまで日本記録だった。

 引退後は阪神、西武などで投手コーチ。公式戦でこれだけ勝っていながらタイトルは62年の沢村賞と、64年の最多勝のみ。日本シリーズは未勝利というのも不思議である。


【2008/7/3 スポニチ】
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