close
【6月18日】2000年(平12)

 【巨人3-1阪神】巨人の背番号55が出てくると阪神・野村克也監督も決まってベンチから腰を上げる。顔には出さないが、松井秀喜外野手の目は語っている。「またかよ」と…。

 甲子園での阪神-巨人14回戦9回表、1点ビハインドの阪神は松井キラーの遠山奨志投手をマウンドに送った。判で押したような野村監督の投手起用だが、きちんとデータに裏打ちされたものであった。

 これまで21回の対戦で、松井が遠山から放ったヒットはわずかに単打2本。外のスライダーを見せられ、インコースのシュートで打ち取られるというパターンを繰り返していた。

 東京ドームでの阪神戦の前には左の打撃投手にシュートばかり投げてもらい特打。それでも効果はなかなか出なかった。99年には代打の石井浩郎内野手が敬遠され、松井勝負という屈辱の選択をされたこともあった。

 しかし、この日は違った。6月8日、ドームでのゲームで中前打を放ち、19打席ぶりに遠山に一矢報いたことが気を楽にしていたのもあっただろう。特訓の成果が徐々に現れたこともあって、そう気負わず打席に入ることができた。

 「追い込まれたらシュートが来る。シュートが来る前に…」。松井の頭にはそれしかなかった。初球だった。外角高めボール気味のストレートにバットが一閃した。打球はあっという間にバックスクリーン右に消えた。実に3年22打席目、天敵から初めてかっ飛ばしたホームランだった。

 この一撃で試合の行方そのものも決まったが、松井が遠山の呪縛から解き放たれた瞬間でもあった。「高めだったけど、上から叩けた。これまで対戦した中で遠山さんの初めての失投。1本出て流れが変わればいいな。きょうはいい酒が飲めそうです」。ホームランを打っても控えめなコメントが多い松井がいつになく多弁だった。

 確実に何かをつかんだ、ソロ本塁打。プロならそれが分かるのだろう。逆に打たれた遠山は何を聞かれても無言のまま甲子園を後にした。

 翌01年4月1日、松井は遠山を“完全攻略”した。東京ドームでの3回戦7回、一死一、二塁。インコースのシュートを完璧にとらえ、逆転3ランを放った。これまでだったら、ファウルで逃げるのが精一杯だったボール。腰を引かずに左ひざを内側に入れることによって、バットの通り道を作り、体に巻きつかせるようにスイングして真芯ではじき返した。進化したゴジラに遠山は呆然とするばかり。以後、松井はことごとく遠山のシュートも外のスライダーも打ち崩していった。

 松井にシュートが通用しなくなったのと時を同じくして、遠山の現役生活は終わりを告げた。02年に戦力外通告を受けて引退。阪神優勝の翌年の86年にドラフト1位で入団。ルーキーイヤーに8勝を挙げるも、その後けがに泣かされ、ロッテに移籍後は打者に転向。阪神に復帰後は再度投手に戻り、99年には松井キラーとしてカムバック賞も受賞した。通算16勝22敗5S。阪神優勝直後に入団し、阪神優勝の前年にユニホームを脱いだまさしく長い“過渡期”の選手だった。


【2008/6/18 スポニチ】
arrow
arrow
    全站熱搜

    ht31sho 發表在 痞客邦 留言(0) 人氣()