close
【1月31日】1986年(昭61) 


 キャンプイン前日、来日した新助っ人が続々と成田空港に到着する中、大洋は“第2の外国人”の獲得を発表した。大リーグ、ミルウォーキー・ブルワーズの3Aに所属するカルロス・ポンセ内野手、27歳。獲得にあたった牛込惟浩渉外担当は「中距離ヒッターで3Aではシーズン52本の二塁打を放ち、“ミスターダブル”と呼ばれた。俊足で前年は盗塁も21個記録している」と特長を説明した。

 大洋が新主砲として獲得したダグ・ローマン外野手と実はチームメイト。来日したローマンはポンセの顔写真を持って飛行機から降りて、3A時代の遠征先でのルームメイトをPR。「ヒゲがチャーミングだろ。陽気なプエルトリコの男さ、カルロスは」と日本でも親友と同じチームで野球ができることを喜んだ。

 言葉は悪いが、とりあえず獲得した選手だった。1月6日、大洋は前年まで4番を打っていたレオン・リー内野手を解雇した。近藤貞雄監督の「チャンスに打てず、走れない選手は構想外」という考えで戦力外が決まった。代わって近藤監督から出た注文が「走れる中距離打者が欲しい」。慌てたフロントは外国人獲得を一手に引き受けていた牛込氏が急きょ渡米することになった。

 牛込氏はただやみ雲に機上の人になったわけではなかった。ローマン獲得の時に印象に残った選手を訪問、カリフォルニアで大学の施設を借りて1人の選手をテストした。それがポンセだった。ウインターリーグでプレーをしていただけに、体の動きは申し分なし。あとは本人の意志だったが、元々忍者映画と時代劇が大好きな親日家。「日本でチャンスをつかみたい」と二つ返事でOKした。1月も下旬に差し掛かっていた頃だった。

 年俸は3000万円。同僚だったローマンより1000万円も安かった。位置付けはあくまでローマンの次の外国人。それに足もとを見られた大洋にブルワーズはトレードマネー2500万円を支払わなければならなかった。

 この年ブルワーズからは大洋に入団した2人以外に、ヤクルトのマーク・ブロハード外野手、阪急にアニマル投手が加わり、日本へ“集団就職”したような形になったが、一番年俸が安かったのがポンセ。「もっと欲しいけど、活躍すればアップするだろう。頑張るよ」と典型的なラテンアメリカ出身の明るい助っ人は、日本の文化や食事にもすぐに溶け込み開幕を迎えた。

 4月4日、横浜で阪神との開幕戦。この日1日だけでポンセは首脳陣とファンのハートをガッチリつかんだ。2打席連続本塁打を含む3安打5打点で前年日本一の阪神に黒星を付け、タイガースはそのまま開幕3連敗。2年連続Vを逃す大きな一戦となった。

 勝負強い打撃でシーズン途中からローマンに代わり4番に座ると、打率3割2分2厘、27本塁打、105打点と大ブレーク。同じチョビヒゲで「スーパーマリオブラザーズ」と呼ばれたローマンは翌87年開幕直後に自由契約となったが、ポンセのバットはますますさえ、87年に打点王、88年に打点、本塁打の二冠王のタイトルを獲得。年俸はポンセが来日当初目標にしていた5000万円を簡単に超えた。

 グラウンドでは明るい「ポンちゃん」も実は恐妻家。本塁打を打ったときの賞品などはすべて妻へプレゼントし、ご機嫌を取ったとか。打てないと食事を作ってくれず、ピザしか食べられなかった。遠征先でチームメイトに連れられて行った混浴温泉で女性が入ってくると、大急ぎで逃げた。「ワイフに見つかったら殺される」--。ポンセがどういう反応をするか見たかった、チームメイトの悪いいたずらだった。


【2010/1/31 スポニチ】
arrow
arrow
    全站熱搜

    ht31sho 發表在 痞客邦 留言(0) 人氣()