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【11月8日】1993年(平5) 

 「フリーエージェント(FA)関する話し合い」という名目で、横浜・屋鋪要外野手(当時推定年俸4800万円)、高木豊内野手(同9840万円)が横浜市内のホテルに呼び出された。FA権のある2人だったが、名目はあくまで名目。球団の本当の目的は解雇通告だった。

 盗塁王、ゴールデングラブなどを獲得し、「ホエールズのセンターに飛んだらまずアウト」と言わしめた屋鋪は、16年在籍したチームの仕打ちに肩を震わせた。「悔しい。ゴミ箱にゴミをポイと捨てるようなものだ。球団は僕のことなんか功労者と思っていないんだよ。引退試合もない。功労金もない。ただのゴミ扱いだよ」。

 かつて屋鋪や、90年に引退した加藤博一外野手とともに「スーパーカートリオ」として、一世を風靡した高木はぼう然自失。「いきなり呼ばれてクビと言われても…。冷たい?もういいよ。言ってもしょうがない」。

 リストラの嵐はこれで吹き止まなかった。独特の打撃フォームで人気のあった、珍プレー特集の常連・市川和正捕手(1900万円)、一時期4番を張ったこともある“こけしバット”の山崎賢一外野手(2700万円)、秋田経大付高(現明桜高)時代に“みちのくの豪腕”と呼ばれプロでは先発、中継ぎ、抑えとマルチな活躍をした松本豊投手(2040万円)、先発ローテーション投手を務めた大門和彦投手(2700万円)も自由契約が言い渡された。

 この6選手の推定年俸を合計すると約2億4000万円。この1週間前、横浜は5人の選手を解雇しており、5人の年俸と引退するベテランの斎藤明夫投手の年俸を加えると、6選手の分と合わせて約3億8000万円となった。

 この金が巨人と決別し、FA宣言確実とされていた駒田徳広内野手獲得の資金に充てられたというのが当時も今でも定説となっている。

 「ウチはそんな貧乏球団ではない」と、チームの若返りを叫んでいた近藤昭仁監督は否定したが、駒田獲得には巨人への保証も含め3億6000万円超が必要だった。額的にはほぼ一致する。大洋から新生・横浜ベイスターズに名称変更した1年目は5位。「名前だけでなく、大洋時代の名残を消すことで本当に生まれ変わらなければ」と、FAという新制度スタートとともに、峠の過ぎた大洋時代の看板選手、レギュラーを切り、チームの印象を変えようとした球団の考えがありありと出ていた。

 屋鋪は「あれだけの守備範囲があって、走れる選手はウチには少ない」と長嶋茂雄監督が惚れ込み、解雇から1週間で巨人入りが決定。年俸も同額が保証された。中日入りがほぼ内定していた高木だが、突如白紙になり、困り果てた結果、日本ハム・大沢啓二監督を深夜に訪問。ファイターズ入りとなった。

 大門は阪神へ、山崎はダイエーへそれぞれ行き先が決まったが、松本は現役続行がかなわず、横浜の打撃投手に、市川は球界を去った。市川はその後、保険会社に就職。努力と野球で培った粘り強さでトップセールスマンとなり、年収はプロ野球選手時代を超えた。

 方法の良し悪しは別として、横浜の判断は結果論としてみれば正しかったといえる。移籍した4選手は1~3年で引退。FA移籍した駒田は、98年の横浜38年ぶりの日本一に貢献、2000年には通算2000本安打を達成した。高木や屋鋪が抜けた後、石井琢朗、進藤達哉、波留敏夫、鈴木尚典らが力を付け、レギュラーとして定着したのも大きかった。

 横浜に愛憎入り混じっている高木は01年に1年間だけだが、内野守備走塁コーチとして復帰。引退後はジャイアンツのコーチも務め「元巨人」の肩書きが付いている屋鋪も07年からCS放送の横浜戦の解説としてしばしば登場。大洋時代のエピソードを披露している。

【2007/11/8 スポニチ】
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