close
【11月9日】1994年(平6) 

 ライオンズの顔が13年所属したチームへの決別を宣言した。「西武を出ます。裏切られた気持ちでいっぱいです。これ以上僕がここに残る理由がなくなった」。温泉リハビリ中の神奈川・箱根での会見は悔し涙を浮かべてのものだった。

 激しい言葉はなおも続いた。「僕は西武に残るつもりだったんです。でも球団は違った。いらないみたいです。最初から僕が移籍するものと決めてかかっていた」。移籍とは、FA権を行使して、西武の工藤を誕生させたといっても過言ではない、根本陸夫氏がいるダイエーへ移るというもの。師弟関係にある2人の“密約説”が当時流れていた。

 「根本さんともダイエー関係者とも一切接触していない。西武を出ると決めただけでまだどこへ行くかは白紙の状態。ただ、ダイエーとは交渉しにくくなった。ダイエーに行ったとしたら、やっぱり出来レースだったんだってファンにも思われてしまう」と工藤。13年間で通算113勝、11回の優勝に貢献し、数々のタイトルを獲得してきた最後がこれなのか…。ため息交じりに出た言葉は「この13年間は何だったんだ…」。西武球団への不信はもうぬぐい去ることはできなかった。

 伏線は前2回の交渉にあった。工藤によれば、11月2日の交渉で球団に「どうしてほしいんだ?といきなり聞かれた。条件提示もなかった」。あくまで移籍を前提とした物言いだった。巨人に日本シリーズで敗れ、やり返したい気持ちを持っていた工藤は「100%残留する気だった」が、冒頭の発言で気持ちは揺れた。

 一方で工藤はこの1年、何の説明もなかった“2000万円の使い道”について尋ねた。「どうして君に説明する必要があるんだ」。球団からの答えに、怒りを覚えずにはいられなかった。工藤には十分使い道を聞く権利があった。実は93年の契約更改で年俸1億6000万円(推定)を提示されたが、ファンサービスに役立ててほしいと2000万円を返還していた。にもかかわらず球団は答えなかった。

 それもこれも、工藤が“密約”によって西武を去ると、はなから考えていたからにほかならない。2度目の交渉となった6日、球団代表はこう言った。「何か引っかかるものがある」。球団は完全にダイエーと工藤との間に“密約”があると信じきっていた。

 西武への決別宣言をしてから3週間後、工藤はダイエー移籍を決断した。工藤獲得には中日も手を挙げたが、根本に代わって7年ぶりに現場復帰することになった王貞治監督が村田兆治投手コーチを従え、直々に出馬。工藤は話し合いの中で「優勝するためには僕が必要なんだというのが伝わってきた。意気に感じた」と、移籍を決めた理由と述べた。

 老朽化した西武のトレーニング施設や環境面の整備を球団に訴え、それが却下されたのもFAの理由と伝えられたこともあったが、工藤自身は「それは表面的なこと。そういう問題より、意気に感じさせてくれるところで野球がやりたかった」。

 同じく西武の代表格選手だった石毛宏典内野手とともにダイエーに移った工藤。王監督の期待に応え、ダイエーとして初優勝したのは入団から5年が過ぎた99年だった。さらに巨人へFA移籍し、その巨人から今度はFAの人的補償で横浜へ。09年は現役28年目を迎える。2年前「僕を必要としてくれた大矢監督のためにも」と言ったが、3年目の09年に大矢監督を男にできるかどうか、来年5月で46歳左腕は一日一日が勝負だ。

【2008/11/9 スポニチ】
arrow
arrow
    全站熱搜

    ht31sho 發表在 痞客邦 留言(0) 人氣()