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【11月20日】1986年(昭61) 


 不作を通り越して凶作とまで言われた、22回目のドラフト会議。「1位指名で事実上おしまい。ドラ1で思い通りの選手が取れるかどうかしかない」とどの球団のスカウトも公言するほど、数人の候補しか食指が伸びる選手はいなかった。

 その中で高校、大学、社会人と1人ずつ目玉がいた。高校の目玉は愛知・享栄高の左腕、近藤真一投手。即戦力というより、粗削りではあったが“カネやん2世”と呼ばれた、将来を感じさせる速球とカーブが自慢の投手に、地元中日をはじめ近藤が“意中の球団”とした阪神、ヤクルトに加え、広島、日本ハムまでが参戦。5球団によるくじ引きとなった。

 「頼む監督。当ててくれ。でないとオレはクビだ」。祈るような気持ちで、星野仙一監督を送り出した、中日・田村スカウト部長はここ数日生きた心地がしなかった。名古屋電気高(現愛工大名電)の工藤公康投手、大府高・槙原寛己投手と地元愛知の高校有望選手を取り逃してきたドラゴンズ。3人目はどうしても落とすわけにはいかなかった。

 「優勝決定戦で先発する心境」で星野監督はいすから立ち上がった。箱に入った5通の封筒。「1番最初に指に触れたのを引いた。迷ったらダメだから」。右腕で引き上げたその1通こそ「選択確定」の4文字が刻まれた“当たりくじ”だった。「よおしっ!」星野監督は派手にガッツポーズした。3時間目の簿記の授業が終わり、急いで駆けつけた図書室のテレビの前。近藤は憧れていた星野監督に導かれ、人生最高の瞬間を味わった。

 「最高の気分です。星野さんがテレビで強気なことを言われていたので、必ず引いてくれると思っていました」と近藤。星野監督の強運は続く。5位で指名した近藤の女房役、享栄高の長谷部裕捕手も阪神と競合の末に引き当てた。

 巨人、大洋、近鉄の3球団が競合した亜細亜大・阿波野秀幸投手は近鉄が交渉権を得た。巨人、大洋なら万々歳の阿波野。3分の2の確率に大船に乗ったつもりでいたか、当てたのは一番考えていなかった在阪パ・リーグ。意中でない場合は社会人入りもといわれていたが、「好きな球団と入る球団は違うんですね…」と苦笑。前向きに入団交渉に臨んだ。

 その後、運命は阿波野の人生を翻弄した。近鉄のエースとして活躍後、けん制球ボーク騒動から本来の投球フォームを崩し、95年巨人へトレード。98年には横浜に移った。実に12年の歳月をかけて、ドラフト指名されたすべての球団に所属するという数奇な運命をたどった。

 社会人NO.1右腕と評判の日本生命・田島俊雄投手を南海が阪急との一騎打ちで獲得。単独指名はロッテ・関清和投手(専大)と西武が隠し球として用意しておいた森山良二投手(北九州大中退)の2人のみだった。

 くじに外れた7球団だったが、災い転じて福となったのは、日本ハム。愛知工大・西崎幸広投手を指名できた。この西崎こそ86年ドラフト組の投手として最高の通算127勝(102敗)の数字を残した。

 大洋・友利結投手(沖縄・興南高、後にデニー)、巨人・木田優夫投手(山梨・日大明誠高)、阪急・高木晃次投手(千葉・横芝敬愛高)と入団した球団ではあまり花が開かず、移籍後に輝いたドラ1も多かった。12球団の1位指名が全部投手ともいうのも初めてのドラフトだった。


【2009/11/20 スポニチ】
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