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【11月20日】1985年(昭60) 

 その時、目と目が合った。一方は驚き、もう一方はニヤリと笑った。

 驚いた男、“パンチョ”こと伊東一雄パ・リーグ広報部長は、巨人が提出した用紙にもう一度を目をやった。「本当に?」自問しつつも、自分の職務を全うすべくマイクのスイッチを入れた。伊東の職務は、ドラフト会議で各球団の指名選手を会場内にアナウンスすることだった。

 「第1回希望選択選手、ミヨウリ…」独特の声色で巨人の指名選手を発表しようとして、ひと呼吸置いた。もう1度「本当に?」という思いが頭をよぎったからだ。意を決して、パンチョはこの会議でコールされることはないとされていた選手の名前を一気に読み上げた。

 「クワタ マスミ 18歳、投手、PL学園高校」。

 パンチョに向かって、ニヤリと笑った男、巨人・王貞治監督は何事もなかったように手元の資料を読んでは、次のページに忙しく視線を移した。

 阪神が初の日本一になった85年のドラフト会議。70人の選手が指名されたが、極端な話、2人の高校生のためだけに開かれた会議と言っても過言ではなかった。

 桑田真澄投手と清原和博一塁手。在学中5回あった甲子園出場の機会をすべてものにし、大阪・PL学園に夏2回の全国制覇をもたらした投打の柱以外に、このドラフトの目玉はいなかった。

 甲子園通算13本塁打の清原はプロ志望。できれば「巨人か阪神に入りたい」と目を輝かせた。一方、同20勝の桑田は大学進学。「東京六大学の早稲田に行って、神宮で投げたい。プロへは大学卒業後に考える」。それぞれの道を歩むはずだったが、巨人がコミッショナー事務局に出した1枚の紙から2人の運命は変転した。

 清原にも望みはあった。1位で入札したのは、南海、日本ハム、中日、近鉄、西武、そして阪神。わずか6分の1の確立だが、意中の球団であるタイガースへの入団の道が残されていた。清原は目の前に用意されたテレビモニターを凝視した。祈るような思いだった。

 6枚の茶封筒に入ったクジ。封を最後に開けた男が表情を崩さず、鋭い視線で二つ折りの紙を左手で高く掲げた。「球界の寝業師」の異名をとった、西武・根本陸夫管理部長だった。

 この根本、実は仰天プランを胸に会場のグランドパレスホテルに到着した。“特殊潜航艇”とも呼ばれた根本が「今年は清原か桑田、どちらかが1位」と公言、各球団も「根本さんも今年は隠し球なしか」と肩をなで下ろしたが、この発言の裏に何かあると読んだのが巨人だった。

 「西武は清原と桑田のダブル獲りを画策しているのではないか」。その読みは当たらずとも遠からずだった。「清原1位は決まっていたが、1位で桑田をどこも指名しなかったら、行こうと考えていた」と根本は後に明かしている。その上で、こう付け加えた。「さすがは巨人。早大進学の意思の硬い桑田を敢然と指名した。あれがプロの仕事だ」。

 松沼博久、雅之兄弟、工藤公康投手など、根本の仕業で何度も煮え湯を飲まされた巨人は、西武のKKコンビ両獲りだけは阻止すべく、桑田指名を決めたのはドラフト当日の朝だった。桑田と巨人の密約説が強調されたが、最終的には「即戦力投手がほしい」という2年連続V逸の王監督の強い意志と、桑田本人と家族が大の巨人ファンであるということに一縷の望みを託して指名に踏み切ったというのが、真相に近いようだ。

 その後の入団への経緯、2人の功績、対戦などは周知のとおり。あれから22年、2人とも現役を続けているということは、何をおいても素晴らしい。通算2000本安打を放った日本ハム・田中幸雄内野手が引退し、同期の指名選手、ドラフト外で入団した選手の中で現役を続けているのは、07年オフの時点でKKコンビだけになった。



【2007/11/20 スポニチ】
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