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【4月14日】1991年(平3) 

【巨人2-1広島】あまりにも悲しすぎる後ろ姿だった。打者3人わずか9球で2安打1死球2失点。最後に投げた1球は巨人・原辰徳左翼手の左前適時打となり、逆転を許したカープの守護神が敗戦投手となった。

 これが“炎のストッパー”と呼ばれ、セ・リーグの並み居る強打者を震え上がらせた、広島・津田恒美(85年から恒実)投手の最後の登板となった。広島市民球場の巨人3回戦。ストレート一本で打者に向かっていった躍動感あふれる、あの投球スタイルは、もう見ることはできなかった。

 ジャイアンツは88年ドラフト1位入団の吉田修司投手がプロ初勝利、2回を抑えた桑田真澄投手がプロ初セーブを記録。沸き上がる三塁側ベンチとは対照的に、試合終了後の一塁側ベンチ裏では、津田が池谷公二郎投手コーチの前で声を上げて泣いたという。

 「もう投げる自信がなくなった」。そればかりを繰り返した。マウンド上での強気一辺倒の背番号14は別人のようにやせこけ、目から生気が失われていた。

 キャンプイン前から津田は体調不良を周囲に訴え続けていた。極度の頭痛、食欲不振…。病院での検査を拒んでいた津田だが、巨人戦でKOされたことにより、球団は風邪を理由に登録を抹消。入院して検査をすることを命じた。結果は悪性の脳腫瘍。5月15日に球団から発表があったが、あまりの衝撃に本当の病名は伏せられ、水頭症としていた。

 広島は津田を準支配下登録選手にして回復を願った。津田に届けとばかり、カープはこの年5年ぶりに優勝したが、病状は悪化の一途をたどり、もう野球選手としては再起が難しいとの診断に基づき、津田は退団届を提出。球団は本人の意思を尊重し、任意引退選手にした。一時回復の兆しをみせ、リハビリを始めた時もあったが、2年3カ月の闘病生活もついにカムバックはならなかった。

 山口・南陽工高から社会人の協和発酵を経て、ラブコールを送る巨人を蹴って、81年にドラフト1位で広島入り。通算成績は実働10年、286試合49勝41敗90セーブ、防御率3・31。82年に広島初の新人王となり、右腕の血行障害から復活し86年にはリリーフに転向。4勝22セーブでカムバック賞を受賞し、チームのリーグ優勝に貢献した。89年は最優秀救援投手のタイトルを獲得。高校時代、夏の甲子園の第60回大会2回戦、対天理戦で打たれたソロ本塁打で0-1と惜敗して以来の座右の銘は「弱気は最大の敵」。直球勝負をせず、カーブでかわそうとしたボールを本塁打されたことを悔やんでの教訓だった。

 津田が帰らぬ人となったのは、93年7月20日。まだ32歳の若さだった。東京ドームではオールスターゲーム第1戦が組まれていた。「球宴の日に亡くなったのは球界のみんなに会いたいとおもったからではないでしょう。寂しがりやですから…」。最後を看取った広島時代のチームメイトで、ダイエー移籍後も津田を励まし支え続けた、森脇浩司内野手はとても口が聞ける状態ではない夫人や家族に代わってそう話した。

 炎のストッパーの命の灯火が消えたことに、セパ両軍の選手は言葉を失った。特に広島の選手は正直なところ、球宴どころではなかった。特に津田が任意引退した後、ストッパーに再度転向した大野豊投手は津田の名前が誰かの口から出るたび涙で目の前がにじんだ。

 「一昨年の暮れに見舞いに行ったのが最後だった。その後は元気な時の姿がずっと頭の中にあり行くに行けなかった」と大野。悔恨と鎮魂、さまざまな思いを胸に戦友・大野は津田が“みんなに会いに来た”球宴のマウンドに立った。津田の通夜が営まれた21日、神戸での第2戦、全セが2点リードの9回裏、無死一、二塁。セのヤクルト・野村克也監督は公式戦のごとく、リリーフエースの大野をマウンドに送った。

 まずはダイエー・吉永幸一郎捕手を中飛に打ち取ると、続く近鉄のラルフ・ブライアント左翼手はスライダーで三振に仕留めた。二死となって打者は清原和博一塁手(西武)。圧巻だった。ストレートで2球で追い込み、最後はフォークで3球三振。厳しい場面ほど、完璧な火消しをした津田に捧げる、渾身の12球。大野にとっての球宴初セーブだった。

 いつもと違う雰囲気の背番号24に、後ろを守る野村謙二郎遊撃手は怖ささえ感じていた。「津田さんの気持ちが乗り移ったような投球だった。あんな大野さんは見たことがなかった。津田さんのことはもうこれ以上、しゃべりたくない。思い出しちゃうから…」。7回に逆転二塁打を放ち、優秀選手に選ばれた野村はヒーローにもかかわらず、悲しそうな顔でインタビューを受けた。89年、ドラフト1位で駒大からドラフト1位で入団した野村に何かと声をかけ、チームになじみやすい雰囲気を作ってくれたのは津田だった。

 08年、埼玉県にある東京国際大学野球部(東京新大学リーグ)に広島を4回優勝(日本一2回)に導いた古葉竹識監督が就任した。津田が入団、新人王を獲得した82年に広島を率いていた古葉監督のもとに、津田が他界した時4歳だった一粒種の大毅君が九州の大学から編入学した。ポジションは父と同じ投手。「まだ130キロしか出ないが、父のような投手になりたい」。炎のストッパーの魂は今なお、受け継がれている。

【2008/4/14 スポニチ】
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