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【4月12日】1987年(昭62) 

 【近鉄2-1ロッテ】ストレートはMAX147キロ。カーブもシュートの制球もいいが、シンカーのキレはひと際目立った。

 即戦力といわれる投手は多いが「評判通りや。久々にイキのいいサウスポーを見た」と近鉄・岡本伊三美監督も絶賛した、86年ドラフト1位の阿波野秀行投手は藤井寺球場でのロッテ2回戦で初先発初完投初勝利。パ・リーグでは85年4月8日の西武・郭泰源投手以来の快挙だった。

 散発6安打8奪三振。佐藤健一二塁手に許したソロ本塁打のみの1失点に抑えた。8、9回に三塁に走者を背負ったが冷静沈着。岡本監督もリリーフを送るつもりはなかった。

 「最初に勝つと負けるのとでは大違い。力任せでいった」と、細面の優しそうな外見とは裏腹に強気の姿勢で押しの投球を披露。味方は2点しか取れず、新人には心細い援護だったことにも注文を付け「もう少し打ってほしかった」。初勝利ともなれば祝杯は付き物だか「筋肉疲労を増長させるのでやりません」と、酒ではなく甘いケーキを食べたいと言うあたり、まさに“新人類”だった。

 プロでは“あの2人”を上回ることができた。阿波野は神奈川県出身。亜細亜大学で東都通算32勝を挙げ、ドラフトの目玉と騒がれたが、横浜市立桜丘高時代は、実力はともかく天と地の差ほどの知名度の差を感じる投手がいた。

 一人は横浜高の愛甲猛投手。80年(昭55)の第62回全国高校野球選手権で優勝し、ロッテにドラフト1位指名された高校球界のアイドルとの接点は阿波野が高校1年の時だった。3年生の愛甲は神奈川の選抜チームに選ばれ、その練習の手伝いを阿波野ら桜丘高の野球部員がすることになった。

 プロでは投手として芽が出なかった愛甲だが、当時から打撃も非凡なセンスの持ち主。愛甲が快音を発して飛ばす打球の球拾いをしたのが実は阿波野。「何でオレがこの野郎の球拾いなんだ」。気の強い阿波野の率直な気持ちだった。

 高3になった阿波野は県下では名の通ったサウスポーになっていた。が、それ以上の人気と実績のある投手が1学年下にいた。横浜商高・三浦将明投手。82年の春の選抜でベスト4。愛甲に続くアイドル投手としてもてはやされた。

 夏の大会前だった。横浜駅の地下街で三浦とすれ違った。“追っかけギャル”と呼ばれる親衛隊が三浦にまとわりつき、キャーキャー黄色い歓声。その人気はまるでテレビに出ている芸能人のようだった。「調子こいてんじゃねぇよ。あの野郎」。

 阿波野は結局、1度も甲子園には縁がないまま、高校野球を終えた。三浦は翌83年春、夏ともエースとして甲子園に出場。春は池田(徳島)の水野雄仁投手(巨人)、夏はPL学園(大阪)の桑田真澄投手(巨人)、清原和博一塁手(西武)に敗れはしたもののともに準優勝。甲子園通算12勝を挙げ、中日にドラフト3位入団した。

 愛甲は3年間で投手失格となり0勝2敗の成績を残し打者に転向。三浦は1軍で16試合登板も未勝利のまま引退した。どうしても行きたかった甲子園には手が届かなかった阿波野は2人ができなかったプロでの初勝利を手にした後、14の勝ち星を積み上げ、日本ハム・西崎幸広投手との激しい競い合いに勝って新人王を獲得した。

【2008/4/12 スポニチ】
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