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【3月30日】1957年(昭32) 

 【毎日5-1西鉄】先発投手は70球まで(70球目にさしかかった打者との対戦を終えるまで)というWBC1次ラウンドの厳しい球数制限があったとしても完投できる球数で、開幕戦に完投勝利を収めた右腕がいた。

 毎日(現ロッテ)の22歳の若きエース、植村義信投手は前年初の日本一に輝いた西鉄を相手に、2安打4三振無四球の1失点、投球数71でシーズン1勝目を挙げた。プロ野球史上9回完投の球数としては最少記録だった。

 初回から4回まで全イニング1ケタ投球の計23球。5回に初めて13球を要したが、ここまでノーヒット投球。6回1死、日比野武捕手の代打玉造陽二外野手が左前打を放ち、大記録は夢となってしまったが、その後も気落ちせずに快調な投球を続け、8回終了時にはまだ60球。52年(昭27)5月11日の近鉄戦で阪急(現オリックス)の柴田英治投手が記録した71球の記録更新が十分可能だった。

 9回。完封そして新記録まであと1人となったところで、1番高倉照幸中堅手を迎えた。「前年優勝した強いライオンズを今年も見に来たお客さんに開幕戦からシャットアウト負けなんて無様な試合は見せられない」。別名“切り込み隊長”と呼ばれた思い切りのいいスラッガーは、植村のストレートだけに的を絞り、見事に仕留めて左翼席へと運んだ。

 意地の1発を浴びた植村。あと5球投げてしまえば、新記録どころかタイ記録まで逃してしまう。完封勝利もなくなり、動揺するところだが、前年19勝をマークした右腕は相変わらずのポーカーフェイス。次の打者河野昭修一塁手をカウント2-1と追い込むと、この日低めにビシビシ決まったストレートで空振り三振に打ち取り試合終了。初の開幕投手で投球数71球の最少投球数完投勝利で幸先の良いスタートを切った。

 「きょうは(センターからホームへ風が吹く)追い風だったから、それを利用してスピードが乗る直球を中心に投げた」と植村。兵庫・芦屋高のエースとして春のセンバツで優勝投手となった植村の決め球は縦のカーブ、いわゆる“ドロップ”だが、これを封印。もともと制球がいいだけに、西鉄の打者が早打ちしてきたことが、記録につながった。

 「西鉄打線が不調だったんですよ。記録?いやあ、ぜんぜん知らなかった。いつもこれくらいの球数ですよ」と日本記録にも涼しい顔で答えた。コントロールがいい植村が投げるときは「試合が早く終わる」と野手陣には好評だったが、福岡・平和台球場でのこの試合も1時間34分という早さで終わった。

 最初で最後の開幕投手で最高の結果を残したが、61年に26歳の若さで現役を退いた。赤痢を患い、体力の限界を感じたためという。通算74勝69敗。桑田真澄(巨人)、松坂大輔(西武)、田中将大(楽天)ら高校からプロに入った甲子園優勝投手が付ける傾向にある背番号18の元祖はこの植村だった。

 植村の野球人生はむしろその後5球団計35年にわたる投手コーチで輝きを放った。空手三段の特技を生かし、投球に空手の呼吸法を取り入れたり、股関節や内転筋強化の特殊メニューを考案するなど、個性的なトレーニング法は球界でも有名。ロッテ時代にはエースとなった成田文男を一本立ちさせ、阪急でも山口高志、佐藤義則ら期待のルーキーを早くから1軍で投げられるように指導し、日本ハムでも埋もれていた工藤幹夫や伸び悩んでいた間柴茂有らを大化けさせた。

 大沢啓二監督の後を継いで84年に日本ハムの監督に就任したが、成績不振でわずか3カ月で解任。チーム全体を統括する監督より投手のことを真剣に考える、専門職の名投手コーチの方が似合う人である。


【2009/3/30 スポニチ】
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