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【4月24日】2005年(平17) 

 【ヤクルト5-2広島】打球が三塁線を抜けると、確信を持ちながら二塁へ走った。ベース上に到達すると、後方のスコアボードを凝視した。間もなく点った「H」のランプ。「ヒットだとは思ったけど、違ったら格好悪いから確認した」。プロ16年目、ヤクルト・古田敦也捕手が広島・大竹寛投手から通算2000本安打を、プロ入り初安打(90年4月30日、巨人戦で木田優夫投手から)と同じ二塁打で達成した。

 驚きのシーンが松山坊ちゃんスタジアムで繰り広げられたのはその直後だった。一塁側ベンチから選手が波のように二塁へ押し寄せてきた。サヨナラ勝ちなら、よく見る光景だったが、試合はまで6回裏。花束を持った選手会長の宮本慎也遊撃手はまだしも、若松勉監督まで駆け寄って、今にも胴上げしようかという勢いだった。

 さすがに対戦相手の広島に失礼と、握手で終わったが、達成の瞬間にフェアグラウンドへベンチにいる選手まで“乱入”するだけでも前代未聞の“祝賀セレモニー”に古田は「嬉しさ半分、恥ずかしさ半分」とただ笑うだけだった。

 前年の04年はヤクルトの主力選手であると同時に、労組・プロ野球選手会の会長として、近鉄・オリックスの合併問題で「1日も休みなく」(ヤクルト・須藤広報)動き回った。球界再編問題の中での苦渋の選択だったストライキではファンの前で涙を見せたこともあった。楽天の加盟で12球団制は維持されたが、今度は古田自身が05年のシーズンを21打席無安打という経験したことのないスランプでスタート。「全く打てる気がしない」と残り16本がとても遠く感じたこともあった。

 そんな時は「いつもファンの声援に支えられた。調子のいい時も悪い時も、声援があったからこそここまでこれた」と古田。2000本安打の記念のボールをヤクルトファンが陣取るライトスタンドに惜しげもなく投げ入れたのは感謝の気持ちからだった。「僕がリビングに飾って眺めているより、ファンに方に喜んでもらえるんじゃないかな」。

 32人目の2000本安打達成だが、大学、社会人を経てプロ入りした選手としては初の快挙。捕手としては師匠である野村克也元ヤクルト監督に次いで2人目の名球会入りとなったが、スピードは師匠より99試合早かった。

 「捕手は投手のリードに専念してくれればいい。バッティングまで求めない」という風潮は球界において今でも根強いが、古田はそんな“常識”に挑戦してきた。野村は「捕手だったからこそ三冠王が獲れた」とかつて話したことがあったが、捕手だったからこそ、古田は2000本安打に到達したといえる。

 バッティングが良かった捕手ではなかった。「バッティングに関しては指導した記憶がない。指導したのは配球とリード面の読み。これは嫌というほどやった。古田はそれを打撃に生かしたんだ」と野村監督。捕手として学んでいるうちに、相手バッテリーの配球意図がつかめるようになり、それが打撃に生きた。

 ただ“読み”だけで首位打者を取ることが出来るほどプロは低いレベルではない。ヤクルトで打撃コーチなどの経験がある、中西太氏が臨時コーチとしてちょくちょく顔を出した時など、最後まで食らいついて練習していたのは古田だった。バットの研究にも余念がなく、さまざまなタイプを納得いくまで試した。この誰にも負けない練習量と探究心が「メガネの捕手なんて使えない」とさんざん言われたプロ入り前後の評判を覆してみせた源となった。

 古田は06年から2年間、師匠の野村と同じく捕手兼任監督を務めて引退。通算2097安打は野村のそれより804本少ないが、通算打率は野村の2割7分7厘を上回る2割9分4厘を記録した。


【2009/4/24 スポニチ】
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