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【11月19日】1974年(昭49) 


 ライバルと称された他の3人が次々1位指名される中、茨城・土浦日大高の工藤一彦投手の名前が呼ばれたのは、全体の18番目。ドラフト会議を中継していたラジオ放送も終了し、会場から連絡を受けた記者の一人から聞かされて「阪神2位」を知った。

 「あまり嬉しいといった感じではないですね。積極的にプロに行きたいとも思っていなかったし…。どこが指名するのかなってくらいの関心しかなかった」と淡々と話す工藤。希望していなかった在阪のタイガースというのがしっくりこなかった。それに2位というのもしのぎを削ってきた鹿児島実・定岡正二投手が巨人、横浜高・永川英植投手がヤクルト、銚子商高・土屋正勝投手の3人が1位指名だっただけに少しプライドが傷ついた。

 工藤本人の第1志望は早稲田進学。父親は社会人を経て完成してからでもプロ入りは遅くないとさえ考えていた。「甲子園を本拠地にしているので、1人は“甲子園の星”がほしかった。工藤君あそこまで残っているとは思わなかった。幸運だった」と阪神・長田球団社長は喜んだが、球団が思うほど工藤はプロ入りに積極的ではなかった。

 工藤のライバルも同じように予期しなかった球団からの指名に戸惑っていたのは、中日に1位指名された銚子商の土屋だった。全体で3番目、高校生ではいの一番にお声がかかった甲子園優勝投手だが、「一度も会っていないのに指名するとは…」と困ったような表情を集まった報道陣に見せた。ここでも父親は「社会人に行ってから…」と言い、母親にいたっては「名古屋は遠すぎる。ひとり息子を遠くへやれますか」と、予想されていた巨人をはじめとする在京球団でなかったことにショックを受けた。

 現在では関係者に根回しをして、本人に接触できずとも指名前にはすっかり“話が出来上がっている”のがドラフトの常識だが、この当時は強行指名あり、突然の方針転換あり、面識なしも当たり前という時代。それだけにファンの立場からすればとてもスリリングなドラフト会議だった。

 定岡、永川はトントン拍子で話が進み、契約となった。阪神は1位指名した丸善石油の古賀正明投手にフラれ、この上工藤にまでソッポを向かれると、面子丸潰れである。何とか口説き落とし入団にこぎつけ、中日は土屋と同郷の鈴木孝政投手らを総動員して説得。ようやく入団の運びとなった。

 高校四天王と呼ばれ、大きな期待を背負ってプロ入りした4人だが、18歳の投手がすぐに活躍できるほど甘くはなかった。土屋は1年目から1軍のマウンドを踏んだが、初勝利は5年目の79年。通算8勝(22敗)で中日ではなくロッテを最後に86年に引退した。永川にいたっては77年に1イニングを投げただけで二度と1軍での登板機会はなく、病に犯され引退。91年に35年の短い生涯を閉じた。

 長嶋茂雄監督1年目のドラ1として注目された定岡は初勝利こそ80年と遅かったが、81、82年と連続2ケタ勝利。86年オフに近鉄へのトレードを拒否し、通算51勝42敗の成績を残し、すっぱりと球界から去った。

 結局一番息の長い投手となり、一番勝ち星を挙げたのは“18番目の男”工藤だった。16年の現役生活で通算66勝63敗。82、83年はチームで最多先発としてフル回転した。

 ドラフトの指名順位が影響するのは契約金と初の年俸、最初の待遇だけ。以後は何番目に指名されようと関係ないのがプロの世界だということが、4人が残した数字を見比べるとあらためてよくわかる。


【2009/11/19 スポニチ】
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